ちょっと病んでる曲に引きずられなくなった

今週のお題「わたしの春うた」

 

今よく聞いているのは「あいみょん」。明るく病んでる曲だと思う。わがままでかわいい。私も過去ああいう存在だったと思いたいけれど、もう少しかっこ悪くて重たかったかもしれない。強がっていたし痛々しかったと思う。

 

 

「ふたりの世界」「貴方解剖純愛歌〜死ね〜」「愛を伝えたいだとか」を何回も何回も聞いている。「分かるゥ」って気持ちじゃなくて、フィクションのような、一線をおいて、かわいいと思って聞けている。これは曲に引きずられていないってことだと思う。

 

 

曲に引きずられているのか、それとも私が曲に勝手についていっていたのか、それは判断できないけれど、そういう時期もあった。

例えば、クリープハイプ。例えば、back number。こんなこと言ったらあれだけど、この人たちの曲ってちょっとナヨナヨしてるでしょ?メンタルやられがちな感じがしてるでしょ?その曲に引っ張られて、なんだかよく分からないことしてた。でももちろんそれは曲が歌詞が悪いって言っているんじゃないよ。そもそもその曲に引っ張られていたんじゃなくて、その曲に酔うことによって、自分のことを正当化していたというような、曲と自分、なんとなく病んでいたり可愛そうだったりする自分に酔っていたんだと思う。

 

 

そういうニオイって顔にもなんとなく出てきて、自分で見ると分かるけれど、その時期の写真って不健康な顔してる。肌荒れもそうだけれど、それを抜きにしてもなんとなくおかしな顔してる。あんまり見たくない。浮腫んでいたり、目つきがおかしかったり、不幸せそう……そう、不幸なオーラが出ている。

 

 

あの頃の私は、不幸な歌詞の中(クリープハイプやback numberは自分たちの曲で不幸を表現しているなんて思っていないんだろーけど)に浸って、そんな自分を肯定してた。もしかしたらそういうのが似合って、独特の幸せを表現できる人もいるんだろーけど、実際そういう人も想像できるし、でも私には向いていなかったみたいだ。そういう、不幸な幸せを持てる人って、そういうの向いている人にしか無理だと思う。儚げな幸せ感。私はそういうの向いていないからこそ、惹かれたのかもしれないね。だからちょっと病んでる(この表現があっているか分からないけれど)曲に尋常じゃなく惹かれてた。歌詞を、ノンフィクションの世界にしてた。

 

 

今の私もクリープハイプやback numberを思い出したよーに聞くけれど、あの高揚するような不幸さは、私にとってはちゃんとフィクションだって分かってる。好きな気持ちと、その歌詞に自分を投影するのは違うんだと。

 

 

まあ歌に関しては割と広々と好きで雑食なのもあって、今もどんどん新しい曲を、キラキラしたのもどろどろした感じのも聞くけれど、どこまでも共感するみたいな、歌詞の危うさに飲み込まれるみたいな、そういう感じでは聞かなくなった。

 

 

好きだ!はまる!という感覚はある。聞いてて泣いちゃいそうになるくらい、心が震えるくらい好きだ!と、びびっとくることはあるけれど、どんどん暗ーい場所にはいっていくような、しかも気付かないうちにひたひた浸っていくような、そういうのは無くなった。

 

 

良かった。

 

 

だから、今の私にとってはどんな歌も「わたしの春うた」になる。好きな歌は全部、私を輝かせて、人生の主役にしてくれる。私の背中を押してくれる。ここまでこれて良かった。

嫌いだったおじさんを好きに戻れた

 

嫌だ嫌だと思いながら接して、でもいつもなんとなくヘラヘラ誤魔化して、休みで会わなくなるとなんとなく気持ちも収まって、でも会うとやっぱり嫌になって……良いところもあるんだけどやっぱり三年も一緒にいると嫌なところや嫌な癖も見えてくる。そんなおじさん。今までも散々、この場でけちょんけちょんに言ってきた、おじさん。そのおじさんを実は今は嫌いじゃないし、パートナーとして頑張ろうと思ってる。改めて、ついていこう、私も頑張ろうと思えている。

 

解決してみてきづいた。一番の問題はやっぱりこのおじさんだったんだ。今までの他の問題がちっぼけに思える。これは、ほかの要因(大学院だとか、仕事にやる気があるとか、慣れてきたとか、そういうこと)もあるだろうけれど。

 

職員室でおじさんに軽く嫌味を言ったら、教室に移動することになって、それで、1時間以上話した。ぐちぐち言ったし、失礼なことも言ったし、私の本音も言ったし、全部吐き出した。おじさん大丈夫かな?って心配になるくらい。おじさんも本気で返してきて、でもなんかうまくお互い通じあわなくて、ぐちゃぐちゃになった。嫌になって切り上げようとしたら、おじさんが粘ってくれて。……まあ、それに対しても最初は、めんどくさ!話通じないな!うざ!!!って思ったけれど、今思うとああいうのが大事なんだな、と思う。悲しいかな、あるいは当たり前かもしれないけれど、私は他人とあそこまで言い合ったことは無かったと思う。例えば一方的に言ったことはあったけれど、それに対して本気で返してくれる人はいなかったし、返されそうになったら逃げていた。

 

私は今まで、あんなに拗れたり面倒になったり汚くなったようなコミュニケーションを最後まで責任とれたことがなかったし、向き合ってくれる他人もいなかったと思う。いつも最後は我慢したり逃げたりして、根本的な解決に至ってなかった。……今回も話し合いとしての根本的な解決はされたかっていうと、されてないかもしれないんだけど。でも、私の気持ちはスッキリして、おじさんのことを好きになれた。だから仕事はすごく気持ち良くできるようになった。それが一番の良いことだと思う。その喧嘩のあとに、おじさんとまた2人で居酒屋みたいなところ行って、だらだら喋って、解散した。あんな言い合いしたあと、よく誘ってくれるよな、とも思ったけど、誘ってもらえて良かった。上から目線になっちゃうけど、おじさん、だてに年取ってないな、と思った。よく結婚できたよな、相手若いらしーし、騙されたんじゃないの?と思っていたけれど、結婚できた理由が分かった気がした。……私って本当に失礼だね。でも本音。本当、結婚できた奥さんは幸せだねって思うくらいまでいった。ちゃんと向かい合ってくれるおじさん、まあ途中からお互い言いたい放題になっちゃったけどさ、ありがとう。教員としても、人間としても。

 

さて、そんなこんなでその喧嘩のあとから絶好調な感じ。新しいクラスも、まあまあ慣れてきたせいか前よりは全然大変じゃないし、嫌じゃないし、緊張も少ないし、嬉しい。上司からもらった「仕事は2割」っていう考え方が効いてるのかもしれないけど、仕事が嫌じゃないし、準備も嫌じゃなくなった。大学院もまだ始まったばかりだけれど楽しい。

 

仕事もプライベートもその中間も、良い感じ。久々の全能感。これを大切にしていきたい。そう思って記す。

 

 

 

 

やっぱり、地元には帰らない

 

私はこっちで生きていく。

こっちに帰ってきたとき、ほっとした。いつのまにかもう東京は私の居場所になっているんだって思う。

 

もしも、東京にいられなくなったら、海外に行こう。地元が3位に転落した。

今日のメンバーと話していて、地元は自由でないと感じた。地元を愛すべき場所に変えてくれる人たち、それは血縁者と少しの親友のみである。

 

 

いいなぁ、けいちゃんの親御さんは

 

うちの中学校って荒れてて、まあ荒れている子と荒れていない子で別れていたんだけども。

 

荒れている子は基本的に勉強しなくって、でも学校には毎日反抗するために(?)来ていて、ギャルだったりギャル男だったり、なんだか派手でよく先生に逆らったり反逆起こしたりしてて、個別で話したら良い子たちなんだけど、集団になると手がつけられなくなるよーな、そんな痛々しい子たちだった。今でこそそんな子たちの現在をSNSなんかで垣間見ると、それこそ痛々しくかっこ悪く感じてしまうことがあるのだけれど、当時の不良な彼らはすごくかっこよく見えていた。

 

かっこよくは見えていたんだけれど、それはその場限りのかっこよさってことも、こちら側としてはちゃんと分かっていた。勉強していれば…まあどーなるか分からないけれど、少なくとも、今反抗やらメイクやら男女交際やらやるよりも絶対将来輝ける材料を見つけて育てられる確率は高い。それくらいはなんとなーく分かる、そういうお年頃。

 

将来を削って、今、輝いているんだろうなと思っていた。命をガンガンに燃やして生きるように見えて、美しかったし嫉妬したし憧れた。盛りに盛られた前略プロフィールを真似たり、プロフィール写真を保存したり、プリクラ交換や手紙交換をしたり。かっこよかった。男の子も女の子も。

 

いじめや派閥や先生たちとの言い合い、先輩、後輩、友達との喧嘩、異性関係のもつれ、、そういうのについてはこっち側の私たちだって忙しかったけれど、目立たず静かに、ときには頭を使って計算しながら燃える私たちと違って、けいちゃんたち、ギャルたち、不良たちは派手に頭使わずやらかしていた。豪快に。嫌いだからという理由で人を殺しそうになったり、楽しいからという理由でいじめたり、あれあれていた。抜け出しなんてしょっちゅう、当たり前。私の友人の1人は先生に向かって怒鳴り散らすけいちゃんを見て、「私の子があんな風に育っちゃったらどーしよ…」と言っていた。失礼なよーだけど、私たちはあっち側じゃない。学校の半分の人たちは同じよーなこと思ってたんじゃないかな。

 

 

不良の子たちって、1人ひとりとは話してて楽しくて、いわゆる普通の子たちなんだけど、グループになるとダメになる。ダメになるというのは、自分のことを大切にしないという意味で。そういう意味で、集まるとどんどん悪くなった。そんなスパイラル。けいちゃんもそんな感じだった。肌も焼いて黒くなって、かわいかったのに、どんどん行き過ぎて中学生に見えないくらい老けた。大人っぽくてかわいかったのに、なんだかおばさんぽくなっていった。高校は辞めちゃったみたいだ。

 

 

けいちゃんは今もそのまんまだ。

前よりも太って、だけど今も髪の毛を伸ばして、しっかりメイクして、バイトをしてる。

 

 

そんなけいちゃんを風の噂、SNSで知って、あの子たちのかわいさの絶頂は大半の人たちの予想通り、やっぱり中学生だったんじゃないかなと思う。自分自身でも最強だと思ってたであろう、田舎の、あれた公立中学の、最高のギャル、不良たち。あーあ、やっぱりねと思う。あのとき想像したよーな人生、期待通りの人間になっていることがおもしろかったり切なかったりする。

 

 

カリスマ的存在だった、けいちゃんたち。フィールドは田舎だったけど、ただの公立中学校だったけど、わたしには決して真似出来なかった。キラキラしてた。なんで私がそーならなかったかって、、将来が大事?親の期待を裏切らない?規則を破ることへの恐怖?似合わない?…どれも違うようなどれも理由になるような。

 

 

でも、あこがれの人たちの真似はできなかったけれど、私も私でドラマの中に生きた。特に3年生は最高だった…。そう、私にとってもあの子たちにとっても学校は居場所であり楽しい場所であるはずのに、どうしてあの子たちはあんなに先生と対峙しながら必死に自分たちの道を築き上げようとしていたんだろう。私は学校が楽しかった。彼らにとってはどーだったんだろ。私にとっては青春だったよ。あそこまでスパイスを入れなくても素晴らしいものになるはずなのに……と少し上から目線で思う。

 

 

 

そんなけいちゃんだけど、中学のころから家事をちゃんとやってたらしい(けいちゃん母談)、でも私は家で全然お手伝いを出来ていなかった。

私はお母さんから「いいなぁ、けいちゃんの親御さん。みんな家事はけいちゃんがやるんだって、羨ましいよ。かわいいし。」と言われたとき、すごく悔しくて、けいちゃんのこと凄く嫌いになった。(まあ今思うと、あれくるってたけいちゃんをフォローするために、けいちゃんのお母さんが嘘ついてた可能性もあるけど……それは邪推かしら。)

 

 

 

けいちゃん?!けいちゃんよりも私のほうが頑張ってるのに。けいちゃんなんて、けいちゃんなんて、けいちゃんなんて……なにも考えられないバカなのに。まま、けいちゃんなんて……全然だめな子なんだよ……

 

 

 

その子たちの前では、私はニコニコしてたけど、プリクラもらって喜んでたけど、デコったノート見てすごい〜見せて〜って言ってたけど、メールかわいいって真似してたけど、それも全部本音だけど、かわいさが羨ましくて、なぜか堂々としてるのが妬ましくて、もうよく分からなくて、実は存在が嫌で、消えてほしくて、そう、カリスマだけどいないでほしくて。ほんとのほんとはそういうこと思ってた。ごめんね。でもきっと、全部もろもろ含めて、おあいこだよね。

 

 

 

そんなんだから、けいちゃんが人生の階段をゆっくり降りていくのを見届けていて、寂しさというよりもなんとなく優越感があった。意地悪だね。ごめんねけいちゃん。

 

 

 

でも、ここまで赤裸々にまとめて、さて、もう終わりだなと思う。だって、この感情はもう整理されていて、ずっと前に終わっていたものを今回ふと思い出して書いているだけだから。意地悪な私からも、ギャルや不良に囚われていた私からも、卒業できている。あんなふうに極端だった私。極端さからも、これからも徐々に、ゆっくりゆっくり離れていこう。

 

 

ワクワクが胸にたくさん詰まってる

 

入学式のおかげ、お母さんの言葉のおかげでワクワクが胸にいっぱい。これからどんなことが勉強できるんだろう、どんな出会いや楽しみがあるんだろう。

 

国立の大学院、私立の大学とは違って、もしかしたら私の感じ方の問題なのかもしれないけれど、肩肘はらなくてすむ、勝負の世界でもなく、優しくてあったかくて迎え入れてくれている世界だった。

高校生の頃に、ここに見学に来ているんだけれども、そのときはそこまで校舎や環境は魅力的に感じなかったんだけれども(地味だな、という印象)。年齢のせいか、自分の成長や経験のせいか、今回はすごく魅力的にみえる。そのころよりも今のほうが、ここの魅力が分かっている。

 

楽しみだなあ。良い人たちと出会えたと思う。頑張るよ。仕事のことが軽くなっていきそう。

 

 

家で暴れた

 

なんだか感情が爆発しそうで、布団の上で手足をバタバタした。音を立てないように腕を振り回して思いっきり動いた。

 

おじさんが嫌だ。仕事のことを休日に考えたくない。休日にメールくるのだって嫌だ、飲み会に誘われるのだって嫌だ。セクハラもアルハラパワハラも全部なくなってほしい。嫌な気持ちになる。

 

「でも、」「だけど、」から始まるフォローや励ましや叱咤は自分でやってる。他人からかけられる言葉なんて、もう自分でかけてる。何度も暗示みたいにして繰り返し、自分を騙して我慢してきたんだよ。

 

明日死ぬとしたら?

今までは仕事をすると思っていた。いつもと変わらない生活をすると。今はそう思えない。

 

おじさんが嫌だ。嫌なおじさんがいない職場だっていっぱいあるんだよ。

嫌だ嫌だ嫌だ。嫌だって思う気持ちだけでも、受け止めて欲しかったよ。お母さん

嫉妬なのかな、と思うと腑に落ちる

 

日東駒専卒のとある先生は、私が大学院に行くことについて良く思っていない。その先生は自分が気に入らないことを聞いたり、気に入らない先生がいたりすると全否定できるし、自分が都合の良いように物事を表現することが得意で…まあそういう人なんだけれど。

 

そのとある先生には学歴コンプレックスがあるらしく(他先生情報)、大学院の教授になりたいという夢があるらしい(生徒情報)。

それを考えると、あー、私が大学院に行くことが羨ましいのかなーと思う。そういうことか、と。

 

分かり合える人、分かり合えない人、同じ文化を持つ人、持たない人、異文化だとしても尊重しあえる人、しあえない人がいる。私はなるべく全て、全てなんて難しいかもしれないけれど、なるべく世界的な、平和的な視点を持ちたいと思う。様々な視点を。私を傷つけてくる人以外に対しては。

 

知らないことを否定したり、分からないことをそのまま否定したりするような人もいる。人を尊重できない人もいる。今までは出会わなかったけれど、それはすごく幸運なことだったんだ。でも、尊重できないような人とは一緒に過ごさなくても良いんだ。そう思う。

 

私は、私の大切な人たちと一緒に歩むよ。

 

嫉妬してくる某先生は、父親に厳しく育てられたという。「冷たい熱帯魚」のあの怖い、人を消しちゃう殺人犯のよーに、幼少期の記憶に今も抑え付けられたり傷つけられたりしていて、そういうのを跳ね除けるように自己肯定して生きているとしたら……同情できるし、かわいそうだなと思える。暗い感情を持つのではなくて、そうやって慈しもうか。