逃走
家出をする前に着替えたのは、混乱する頭の中で、大人であることを忘れていたからだ。
もうだめだ、この話し合いを続けたら私はだめになってしまう。と思って、家出することにした。
家族との1ヶ月にもおよぶ話し合いの中で、ある日、とうとう私は叫んで(発狂したように見えていたかもしれない)、部屋の中に閉じこもってしまった。そしたら、もう出て行け、と言われたのでそうしようと思った。
頭が混乱している。
ビビットなピンクのいちばん大きなスーツケースは目立つからやめた。1ヶ月〜2ヶ月ぶんの荷物が入る、海外用の高くてでかいやつだ。でもやめた。ご近所の目があるから。
3泊分の荷物がなんとか入る、赤いスーツケースを選んだ。今日は土曜日。日曜日はデート。月曜日に出勤するにしても困らないようにしたい。
もともと荷造りなんて、旅行のたびに出張のたびにやってきた。だから慣れてるはずだった。それなのに思考もまとまらないし、余計なものを入れてはひっぱりだし、そこらへんに放り投げたものをまたちっちゃくたたみ直して入れて、厳選できたようなできてないような、結局1時間以上かかった。
コンタクトレンズと眼鏡、iPhoneと充電器、お財布に仕事用の鞄、それから化粧品にスキンケア、数日分の下着と洋服。これだけあれば……といっても書いてみたら多いけれど、これだけあればどうにかなる、というスーツケースが出来上がった。ほんとは私だって持ち歩くものはパスポートとiPhone(もしくはお金)だけ、とか、そういうふうになりたい。私の大学時代の教授はパスポートとお金だけでどこにでも行ける人だった。でも私はやっぱり着替えたいし、目は見えないし、iPhoneだって無ければ心配になるし、いくら電子マネーといえどもお財布も不安だから持ちたい。肌荒れも気になるし、なるべくかわいくいたい。
そういえば、彼氏からプレゼントをもらったばかりだった。自分が逃げようとしている場所に置き去りにするのはかわいそうで、スーツケースにはもう余白が無かったけどどうにか詰め込んだ。
一緒にここから逃げようね。
荷物をどうにかまとめ終わって、自分が変な服を着ていることに気付いた。マスクだから化粧はしないままでも良いかもしれないけれど、でも、変な服を着ていたら家出だとばれてしまうかもしれない(思考がおかしい。29歳の家出なんてばれたら恥ずかしいだけで、別に警察に呼び止められたり補導されて家にかえされたりなんてしないのに)。
最近買った、うすいパープルのかわいいパーカーとホワイトベージュのパンツに着替えたら、パーカーがなんだか幼く見えるし、大人っぽい雰囲気がないように思えたので、やめることにした。だって大人に見えるようにしなきゃならないのだ(ねえ、もう29歳なんだから大丈夫だってば)。
仕事で着ようと思っていたUNIQLOの新作、ジャケットとパンツのセットアップにして、正直スッピンにマスクでそんなしっかりしたセットアップなんてチグハグにも思えたけど、もういいやと思った。だって今日だけで3回着替えてるのだ。パジャマから黄色のワンピース、そこから家出のためにパーカー、最後にセットアップ。もうこれ以上考えられなかった。
それで、音をたてないように家を抜け出した。
スーツケースをゴロゴロ転がしたらみんなに気付かれる気がして、スーツケースを右手で持ち上げて、オドオドしてると話しかけられる気がして(田舎だから誰もいないし、別に誰かいたって話しかけられないのに)、スタスタ歩いた。
車のライトが見えたら、小走りした。何かから逃げていた。追いかけられたら困ると思った。
バス停には19:35にバスが来るはずで、19:15に飛び出してきたものの、よくよく調べたら土曜日のそこにはバスが来ないみたいだった。
でも大丈夫、意外にも、私の家の近くにはタクシー会社があるから。
バスがこないことに気付いて方向転換して、タクシー会社に堂々と近寄っていったら、丁寧に「お車ですか?」と聞かれた。良かった。
家出ってばれてないな、と安堵した(だから私は以下略)。
なるべく落ち着いて会話をして、行き先は最寄駅にした。うちは田舎だから、最寄駅に行くのにも車が必要なのだ。
家出先としてのホテルはいくつか見繕っていた。お金さえあればどうにかなりそうだった。でも今夜泊まれるところはまだ選択出来ていなくて、喫煙の部屋か、もしくはものすごく安いけどお風呂あるのかな?みたいな部屋か、高いところ。もう、贅沢に一番高い部屋にしちゃおうか。楽しい気持ちで温泉に入れる気はしないけれど、滅入る気持ちが落ち着くかもしれない。もしくは友達か彼氏の家に転がり込ませてもらえるよう、頼もうか。iPhoneで必死に検索して場所や値段を確認していたら、最寄駅にはすぐ到着した。
私は自分が汗だくなことに気付く。
タクシーで1010円かかった。10円なくて、Suicaも使えなくて、カードで払おうとしたら、運ちゃんは10円おまけしてくれた。ありがとうございます。
最寄駅では、みんなが40分後の電車を待っていた。
私が待つ電車は60分後に来るみたいだった。
汗がひいて寒くて、脱いでいたジャケットを羽織る。
母から着信が続く。電車はまだ来ない。
40分後の電車が到着して、その頃には居場所はばれていて(私が教えたのだが)、私と母はラインでやりとりしていた。母はもう最寄駅に車で私を迎えにきていた。私は帰りたくなかったし、もう話したくも無かった。暗くて改札も無いような無人駅だ。母は遠巻きに私を見て、ぽつんと駅の入り口に立っている。私にラインを送りながら様子を見ている。
「乗らないの?乗るでしょう、ほら、電車きたよ」
iPhoneを見続けてラインの返信をしている私に、乗り遅れないようにとおばちゃんが声をかけてくれた。
「乗らないの」
私が「はい」とこたえると、「えっ、ああ、そう、乗らないの」拍子抜けしたように、おばちゃんは電車に乗り込んでしまった。このとき私は母と家に戻るつもりはまだなかったけど、でもそれはいつもと違う、逆方向の電車だから乗らないのだ。だから乗らないのだ。
そういえばおばちゃんに気にかけてくれてありがとうございます、って言えなかった。
私たちの様子を見ている駅員さんから顔をそらす(私は乗りませんよ、という雰囲気を出した)。そしたら電車のドアはゆっくり閉まって、走っていってしまった。
電車が去っていってから、母は私のところまで来て、私に何か説得の言葉を伝えた。それから「ほら、帰っておいで」と荷物を掴むとどんどん車のほうに行ってしまう。
そして、その後ろを私はついていく。29歳の子ども。