テラスハウスの雄大をもう少し見守りたかった

 

雄大が卒業してしまった。

 

見ていてすごくイライラしたけれど、自分の生徒を見ているよーでもう少し見守りたかったと思う。私は彼とは友人にはなれないけれど、先輩として、姉としてなら、何か彼に良い影響を与えられるのではないかと思っていた。彼の行動にイライラしているのもあったけれど、画面越しになにも出来ないのが歯痒くて、それでイライラしているところもあったと思う。 雄大はおそらくグレーゾーンだろうな。発達障害てきな要素も持ちつつ、でもあれだけ口がたつならIQはある程度あるのかも、手帳は取れないかもしれないな。それに手帳がないほうが生きていきやすいタイプだろう……

 

ついでに?ミズキも卒業してしまったね。ミズキは卒業してもまあなんとかやっていけるんだろーなという感じ、自信がある女の子の生きていく姿は美しい、彼氏?はちょっと駄目な人だったみたいだけど……とはいえ、なぜツバサの試合前のタイミングで卒業発言なの?!タイミング悪いよー、自分のことばっかり考えちゃって、、とは思ったのだけれど、まあそれくらい大胆だったり自分のこと考えられたりする人のほうが健康的かもね。自分のブランドを立ち上げるならそれくらいの勢いがなきゃね。

 

 

田舎で生きていけるほどの能力を

 

たまーに、親のこととか地元のカフェとかパン屋さんとか考えて、地元に帰りたいなぁと思うことがある。

 

今日はふと、地元のパン屋さんコッペパンが食べたくなって、カフェのパスタやパフェが食べたくなって、、

 

地元は田舎だ。嫌な思い出も、嫌な友達もいる……まあそれは会わなければ良い話だけども、そういう場所も思い出もある。

 

地元でも、田舎でも、どこでも生きられるって思うには、私自身の力をもっと高めないと。自己肯定感も、自分の研究力も、楽しみ方も、なにもかも。あと、車の運転の技術……

 

地元でしっかりと生きていくなら、寧ろ、都会で生きていくよりも自立して魅力的に生きていきたい。都会ならテキトーで良くても、田舎では命とりになることがある。うん、やっぱり自立しなきゃいけないね。

 

いつか自分に自信がついたら、田舎に戻ろう。

 

 

バスを好きな理由

今週のお題「ねこ」

 

ジブリとなりのトトロ」に出てくるねこバスが好きだった。私はずっとあれに乗りたいし、迎えに来て欲しいし、見送りたいと思っていた。それを昨日の夜、ふと思い出した。

 

昨日の夜、22時近く、家に遊びに来てくれた友達をバス停まで送って、バスが来るまでたらたらと話して、、ゆうらりとバスが現れて。それに乗った友人に手を振って見送ったときに、あ、この風景良いなぁと思った。

 

暗闇の中、信号やバスや車の光がキラキラ光って、その中を走るバスには友達と運転手さんくらいしか乗ってない。友達を乗せたバスは信号で止まることもなく、スムーズにぐんっと曲がってすぐに見えなくなってしまった。

 

それを見送りながら、私がバスを好きだと思う理由を思い出していた。

高い視界、目的地までゆっくり連れて行ってくれる、見下げるほかの車、そしてジブリのねこバス。昨日はあの、ねこバスへの憧れを懐かしく思い出した。

 

この人のぶんまで生きようと思うこと

 

父の兄は、30代で死んでしまっている。

 

あまり詳しく聞いたことはないけれど、お兄ちゃんの部屋に入ったことがあって、そのときに大量のノートがあって、落書きのように書かれた文章を読んでしまったことがある。

 

読むときにごめんなさいと思ったし、あまり読まれたくないんじゃないかなと思って、すぐに閉じてしまったけれど、暗い文章だった。でもそうやってノートに書き留めることで楽になっていたんだろうと思う。私もそうだったから。内容的に、受験期のノートかな?と思った。

 

そのお兄ちゃんの気持ちが丸々そのまま分かるということは無かったけれど、そういうことを書く気持ち、ノートに吐き出す気持ちはすごく分かるような気がした。そして、これがこの人の全てじゃないってことも。これはほんの一部で、辛いことばかりだったわけじゃないってこと。すごく友達が多くて頭が良い人だったみたいだし、明るくて優しかったらしい。

 

お父さんのお兄ちゃん、東京大学に行って、社会人になって、もっと勉強したいと思って、東京大学に再入学したんだって。でも、そのあと、早くに亡くなってしまった。

 

今、書いていたら、おばあちゃんとおじいちゃんの悲しさとかお父さんの寂しさを思って泣きそうになってしまった。

 

 

 

 

私は小学生低学年の頃から目が悪くなっていって、目薬をさすことでどうにか治そうとしていた頃、「いつか目薬をさして、それがそのままレンズのようになるような、そういう薬ができないかな」と言ったことがある。

そしたら、お父さんは「それはパパのお兄ちゃんも言っていたなぁ。そうなるかもしれないね」と言っていた。

 

私がパパのお兄ちゃんの生まれ変わりだったとしたら、全然記憶が残ってないから申し訳ないな、なんてことを思った。

 

ぼんやりとそういうことを思う。

 

お兄ちゃんの顔は当然のことだけれど写真でしか、しかも1枚の写真でしか知らない。遺影。

……と思ったけれど、そういえば、お兄ちゃんとぱぱ、ふたりで小さい頃に写ってる写真も見たことある。ぱぱは生意気そうな顔してて、お兄ちゃんは優しそうだった。

 

今は、生まれ変わりなのかもなんて思うことはないけれど、考えることがたくさんあったお兄ちゃんのぶんまで生きようと思う。

やっと言葉としてまとまったけれど、幼少期、父の兄が死んでいることを知ったときから考えてきたことは、こういうことだと思う。

 

 

 

 

おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さん、私の周りの大切な人たち。

死んでほしくないということは本当に小さい頃からずっとずっと強く強く思っていた。たくさんのことを経験していて、そういうものが全部、死んでしまったら消えてしまうような、そういうのって本当に寂しくて悲しくてもったいなくて、それを考えたら心の処理が追いつかない。

 

でも、ふと思う。

死ぬことに関係なく、みんなの良いところや気持ちや経験や言葉は私のものにして、例えば、みんなが出会えなかった人にも伝えていきたいと思う。そうやっていったら、その人が死んだらそれで全部消えちゃうんじゃなくて、何年たっても何百年たっても少しずつ少しずついろんなところに、みんな残っていくんだと思う。私も含めて。

2020年のオリンピックを家族で観たいという思い

 

‪2020年のオリンピックは旦那さんと……😍😍😍と大学生の頃は軽〜い感じで思っていた。のだけれども、今回のオリンピックで初めて観戦がおもしろいと思ったのと、すごく感動したおかげで、本気で、心から、次のオリンピックは誰かと一緒に観たい!!!と思うようになった。

 

誰かと。家族でも、旦那さんでも、友達でも……

まあ、旦那さんと観たいかな……!

 

 

 

 

ボールが無くなっちゃう話

 

小学校1,2年生の頃って、なんだかよく分からないことが多くていつも不安だった(人の話を聞いていなかったからなんだろうけど)。

そんな感じだったわりには、友達も多かったしなんだかスクールカースト上位のKちゃんと親友で、休み時間はすっごく楽しく過ごしてた。

 

Kちゃんとはしばらくして、というかだいぶたってから、私が社会人になってから再会した。Kちゃんは私とまた会えたことに感動している感じだったけれど、私はそんなに感動もびっくりもしなかった。だってKちゃんとは仲良かったから。私の持論として、仲良かった人とはまた会いたくなったときに会えるって思ってる。いまふと思い返して思うことは、私はすごく仕事が大変な時期(自覚無し)にKちゃんと再会したから、少なくともKちゃんにとってまた会いたいと思えるよーな人間じゃなかったのではないかということだ。仕事の話ばっかりしたんじゃないかな、あの頃の私のことだから……。

 

話を戻そう。私の小学校、低学年の子には1人1つ、学校のボールをもらえる仕組みがあった。3年生くらいになると学校に返却……というか次の1年生の代にまわされる。番号がふってあって、ひとりひとりまずは自分の番号を覚えて体育で使ったり休み時間に使って遊んだりする。自分のボール以外は触らない。それが約束だった。自分のボールで遊ぶこと、自分のボールを用意すること。鉄則だった。

 

昼休み、ボールで遊んでいないのに、ボールが無くなっていることがあった。あるいは上級生が泥だらけになったボールを教室に持ってきてくれることも。担任の先生は「も〜、お礼言いなさい」と言うんだけれど、私は全然意味が分からなくて「?????」って感じだった。「泥だらけだ、昼休みに遊んだの?」とか言われた気がする、それでよく分からないまま頷いた気がする……

 

戸惑ってた。だって泥だらけになるわけないし(使ってないから)、無くなっちゃうけど無くなるはずないから(しつこいようだけれど使ってないから)、ボールを探して、混乱して違う人のを使って(もしかしてこの番号だったかも?ってなってた)、ほかの人が「ボールがありません!」ってなったり。割とボールがありません!ってなる人は多かったし、例年そんな感じだったみたいで先生はあんまり気にもとめてない様子だったけれど(だから特別な問題にせず)、私にとっては事件でストレスだったから大変だった。不安でいっぱいのなか、一度だけ私のボールを持っている男子(悪いことどんどんしちゃうタイプの子)がボールを持ち出そうとしているのを見つけて止めて、それ私の!!って言ったことがある。それで取り戻したときの安心感。その安心感のせいでなにも考えていなかったけれど、よく考えたらその子が間違っていたにしてもなんにしても、なんて悪いヤツなんだと思う。あんなに幼い私をボールがない不安で苦しめるなんて……

 

しかもこれには後日談があって、その男の子とは3〜4年のときも同じ班でしかもちょっと仲良くなっちゃうんだけど、その男子が

「俺、1〜2年のとき、ボール、人のを勝手に使って、自分のは汚さないで、休み時間とかooと一緒にドロドロにするまで遊んで、休み時間終わったら蹴飛ばして、それで戻さずに帰ってた」

って言ってて。それ私のーーー!って叫んだ。無差別に取ってたらしく、他にも被害者はいるみたいだったけれど、そういうのって私だけじゃないからって癒されるものでもなく。でも、怒るよーな感じでもなくて、そういうことだったのかあと腑に落ちる?感じだった。

 

あの頃は理解できなかったけれど、そういう悪いこと、なんにも考えずにできちゃう子たちと一緒にいた。9年間。小学校から中学校まで公立で、わちゃわちゃの中で暮らしていたあの頃……かわいそうなことも楽しいこともたくさんあった敏感なあの頃……

 

 

 

 

25歳の頃に書いていた、メモより

 

私はおばあちゃんくらいになったら小説を書こうと決めていた。

 

それは今は無理でも大きくなったら小説を書けるだろう、となんとなく甘く考えていたし、小学校から中学校、中学校から高校、と自分が成長するにつれて考え方が変わったり感じ方が変わったりすることに気付いて、それだったら全部全部考え、感じ終えた段階でそれを活かした小説を書こうと思ったのだ。

 

しかし、だんだんとその変化はそれ以前に考え方や感じ方を忘れさせるということにまで気付くと、寧ろそれでは今のうちに記しておかなければ、と思うようになった。

 

それを一気に書くことを先延ばし、先延ばしにするたびに書けることは増えたり減ったりしながら、しかし私のまわりに常に漂っていて、ふと創作意欲を刺激するのだが、一度パソコンやi phoneなんかでそれを書き始めると思ったより自分が乗れなかったり、あるいは書ききれなくなったり、うまく表現できなかったり……するのだった。そんなとき、私は思う。こういうのを乗り越えて、しかもうまい文章を書ける人だけが小説家になれるのだと。いつか私も乗り越えて、しかもその文章が何か偉い人なんかの目にとまって、小説になって、売れる。せっかちだったりのんびりしたりしながら、私は書くことを溜めていく。

 

 

「みんなのことが分からないのです」と、幼稚園の頃の私は言っていたらしい。小学校、そしてそれ以降の生徒時代の私はその話を聞くたびに「なにそれ」と思っていたが、25歳(なんと25歳になってしまった)の私は、なかなかどうして、言い得て妙ではないか、と思う。その言葉は的確に私の不安を表していた。みんなのことが分からない、これは私の不安の9割を占めていた。いまだって、分からないことが不安だったりする。新しい出会いは好きなくせに、分からないことに対しては不安を抱く。

 

 

小学校や中学校は地元の、いろんな人間がいる世界で育った。正しくないことがたくさんあって、でもその正しくなさの中で泳がなければならなかった。生意気にも「社会」を知った気になっていたが、強ち間違いでは無かった。中1のときも中2のときも、意地悪な子が強い世界で人を傷付けるのをこわがる私は弱かった。苦手なおっぱいタッチやスカートめくり、ブラ外しは頻繁に対象になったし、頻度が一番高いのは私だった。……ああ、でもそんなもんじゃない。もっともっと、今記した文章よりも辛くて胸の中も頭の中もグジグジして、相手に対して消えてしまえと願うような、プライドをズタズタにされるような、屈辱とも呼ぶべき経験もあったはずなのに、それは今の私にとってはどうでも良いものになってしまったせいで書き記せない。中3になって私のコツコツした努力(全ての私が仲良くしたい人に愛を……というような気持ち)は身を結び、殺人未遂が起こるような荒れ果てた中学校で確固たる地位を確立するのだけれど、それでもあの頃、中2のストレスで爆発のように顔面にできた大きなニキビたちは治らなかった。これはずっと私のコンプレックスになって、まっしろな肌の上に赤く痛々しくぶつぶつと出来ては出来、出来ては出来た。……

 

 

でもねえ、しかし、中3になった私はすっごく幸せで、毎日毎日楽しくてしょうがなかったよ。みんなから愛されてて、私が執権を握っているっていうのが気持ち良くて。意地悪な子たちが私の傘下に入るのがおもしろくて。気持ち良くて楽しくて世界一幸せだった。全能感にあふれていた。でもどうしてかニキビはそのあとももう癖みたいに出続けて、結局10年くらい私を苦しめた。どうしてだろう?私のもろさ、気の強さ、心の繊細さ、自分のために相手を気遣い続ける大変さ?とにかくストレスと言ってしまえば、思春期と言ってしまえばそれで終わりだけれど、ニキビは私のシグナルのように出続けていた。