すっごく楽しいけれど、時間が足りない

 

諦めることを知ってしまってから、人生の満足度があがってしまった。

 

自分の人生の大切さを考えられるよーになった。それまでは卒業しちゃった生徒やその保護者のことまで考えて、わたしはこの仕事を辞めてはならないなんて考えていたけれど、そういう責任感に縛られていたけれど、そんなことないみたいだ。辞めてしまったら保護者も生徒もあらあらまあまあ寂しいなとは思ってくれるだろうけれど、それで終わり。絶対3年間は辞められないなんて責任感も、別に保護者や生徒には伝わっていなかったみたいだし(辞めちゃったらどうしよう、と毎年ドキドキしていたらしい。それは私に担任を持ち上がって持ってほしいという思いの表れだけれど、私としてはショックだった。やめるわけないじゃないか、と。でも、あそこまて自分を縛らなくても良かったのかもしれない。)。

 

学校という職場に対して、どうして時間や場所を拘束されてしまうのか、どうしてあんなおじさんと働かなきゃいけないのか(この間の土曜日に語るおじさんを見て、また嫌になっちゃったけど)。そういうの考えにくくなった。

 

大学院生という立場、そして働いているということ、両方が相まって楽しいけれど、時間が足りていないことは感じる。本を読む時間、文書を推敲する時間、家事をする時間、仕事に向き合う時間、遊ぶ時間、映画を観る時間、自分のメンテナンスに使う時間、そういうものを少しずつ少しずつ削って(つまり、諦めて)毎日をどうにか生きてる。そんな感じだと思う。知らないうちに諦めて、それが当たり前になって、平気なことになってるね。

 

博士課程まで行くとしたら、そのためにどうやってお金を稼ぐかを考えなきゃなーー。

 

 

6月病

 

例年、6月は休日が少ないこともあって鬱鬱とした気分になりやすい。

今年も例に漏れず大変だから、しっかりと睡眠をとって自分を甘やかそうと思う。あーーでも、それにしても大変なのでおかしいなと思ってコンビニでちょっと高めのアイスを買った。いま、それが美味しくてびっくりしているところ。

 

なんでこんなに大変なんだろうな。行事に次ぐ行事のせい?仕事そのもの?睡眠不足?女の子の日?…多分、全部だろうなぁ。

 

昔は、例えば宝くじでものすごいお金が当たったとしても仕事は続けるだろうなと思ってた。でも今は、もうものすごいお金があたったら、仕事を辞めて勉強すると思う。いますっごい、勉強に集中したい。英語だってちゃんとやりたい、論文も読みたい、授業に真正面から取り組みたい……。時間が足りない。

 

もう教員は疲れちゃったな、と思うことがある。毎年結局1から始めることになるし、私は基本的に同じことをするのって苦手だし(自由にやっちゃいけない縛りがある初めてのことには緊張するくせに、繰り返しは嫌になる)、何より人を変えるっていうのはすごく難しいよね。すごく、すごく、大事なことだけれど、すごく、すごく、疲れる。

 

毎年6月はこんなこと考えてる。それは毎年のことだから。結局、、8月が終わって希望届を出す頃には気持ちが変わっているんじゃないかな。

 

事務局に異動届を出そうかな。

 

 

寂しくて寂しくて

 

あ、いま私は寂しいらしー。

私はそういう、感情に言葉をつけたり思いを言葉にしたりするのにすごく時間がかかる。時間……というか年月をかけてしまうこともある。ぐ、っと迫りくる寂しさを感じる。

 

誰もそばにいないこと、

恋人がいないこと、

やる気がなくても1日中しっかりと働いて疲れた日にそれを話す相手がいないこと、

抱きしめてくれる人がいないこと、

それがすごくすごく寂しい。

 

嫌なことがあった日、もやっとすることがあったとき、それを慰めてくれる人がいないこと。

甘えられる人がいないこと。

そういう存在がいない自分。

 

すごく寂しくて、でもそれは私1人で味わうしかない。不特定多数に救いを求めるような、そういう私は卒業したんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は、いままで知らない世界があることがこわくて、いろんな世界を知りたかったんだけれど、いまは、知らなくても良い世界があるってことを思っている。知らない世界を知りたいなんて、全部の世界を知りたいなんて、いろんな悪いもの、悪そうにみえるものに憧れるなんて、すごく幸せだったからこそ思えていたことなんだってこと。そして、世界を全部知ることなんてできなくて、知らなくても良い世界はあるってこと。こんな寂しさを知ってしまったのも、そうやって今まで無鉄砲に知らない世界を知ろうとしてしまったからなんじゃないかな。そういう自分の昔の傲慢さ、無邪気さ、無意識の高飛車な態度、地元にいたときには気付けなかったと思う。

 

 

 

 

 

なにかを好きだと思えること

 

私はいままで、なにかを恐れて、他人を恐れて、自分のことを発信するのにすごく時間をかけたり発信せずにいたりしたから、自分がなにを好きかも分からなくなっていた時期があった。

 

 

その時期って、なんとなく人と会えば会うほど自分の価値はあがると思っていた時期と重なっていて、最初は楽しくて会いたくて幸せで予定を組んでいたのにいつのまにか義務のように予定を入れて、予定が詰まっているのが私、というアイデンティティを作り込んでしまっていた。そうなってくると、自分が好きなこと、したいことがあっても、予定のせいで出来なくなって、自覚なしに忙しいからしたいことがわからなくなって、慢性的な睡眠不足やら栄養不足やらで、よく分からない状態になっていたと思う。やれやれ。

 

 

あの頃のマイナス面を活かして今がある、と思えばそれはそれで良いのだけれども。もちろん、ポジティブな思い出のほうが多いし、その頃の予定帳やメモやSNSを見ると、私は本当に幸せそうで人気者で、なんだかかわいすぎるところもあるけれど純粋過ぎてもいるけれど輝いてもいて、良かったな、とは思う。

 

 

回想してしまった。そんな私はやっと生活も落ち着いて好きなことを発信できるよーになったよ、という話を書きたかった。研究が好き、という気持ちを大学時代に話したことがなかったことに気付いた。なんでか、友人たちに否定されたり質問されたりするのがこわくて、まだ自信がなくて、言えなかったのだ。いまは好きだということに自信があるから、頑張れているんだと思う。そして、発信できるんだと思う。

 

 

先日、あるミーティングに参加して、いまの自分の職場への満足度を点数化したところ、なんと100点と出てしまった。

なぜなら、大学院に通わせてもらって、仕事も前より慣れてきて、平日の居場所が2つあることでひとつのことに悩み過ぎることがなくなって、すごく良い感じ、ずっとこれを続けていきたい!という気持ちだからだ。そりゃ楽しいことばかりではなく、難しいことや責任がのしかかることもあるけれど、それ以上に幸せな気持ちが強い。本当に、これを一生続けたい。お金を稼ぎながら、研究を続ける。。いまの職場と大学院だからこそ出来ている。今後、博士課程に進むとしたら、どうすれば良いのかな。この気持ちがとりあえず夏まで続いたら、相談してみようと思う。(もちろん、100点は諦めと妥協もあるとは思う。教育って時間と場所はどうしても拘束されてしまうから、それが嫌だったけれど、いまは別にそれもやりがいにフォローされるようになった。なってしまったのか、それとも、やっとそれくらいのやりがいを感じられるようになったのか……)

 

 

話は脱線するけれど、自信に関連する話だから書き記しておく。私は正直、いままで、すごく結婚に焦っていたけれど、いまはそうでもなくなった。焦っていたときには焦っていることに気付かなかったけれど、自信がなくて焦っていたんだと思う、私って先の見通しがつかないことが本当に苦手だったから。でも、やっと、そういうものもあるって、本当の意味で理解できた。先のことなんて分からないんだから、ぼんやりとした感じでも良いんだ。ぼんやりと、幸せを考えていこう。会いたいって思える人と時間をすごそう。

 

 

結婚したい気持ちはあるけれど、焦る必要はない。そういう穏やかな気持ちになれたのは、本当に、ここ最近大学院も仕事も充実していて、それで結婚しなくても良いなあと思っていたところに、母から、えーでも結婚って良いよ、と声をかけられて、全然、すぐにする必要はないけれどきっと楽しいからいつかは幸せな結婚をしてほしいという言葉をもらって、そうだね、とストンとその言葉を受け取ったから。いろいろあるけれど、家族の力って偉大だな。

 

 

父親の悪いところも母親の悪いところも私と似てる

 

そういうことに気付くと、泣きたくなるし、どうしようもなくて死にたいなと思う。

 

父親はずっと、ずーっと発達障害気味で、根本的なところが改善されなくて、私をイライラさせる。言い訳するし論点をずらすから腹が立つ。母親は最近、疲れると暴言をはく。あ、あ、あ、まずい、まずい、まずい、どんどん下り坂になって、そしたらもうどうしようもなくなる。疲れが疲れをよんで、もうどうしようもなくなる。そうなったら、私もどうすれば良いのか分からなくてあたふたするだけ、父親もそう。それで父親は怒鳴ったり言い訳し始めて、ああもう本当にどうしようもなくなる。死にたくなる。

 

それでも父親にも母親にも期待しちゃうから、うまくいかない。

 

私がいるからうまくいかない。という疑惑もある。母親と父親と弟は、3人で過ごしててもそれぞれ2人で過ごしていても、どうにかやっていけているらしい。どうにか、というよりも、スムーズに。それ、話の流れで思わず聞いてしまった。そしたら辛くなったというより、そういうことか〜となった。もちろん辛さもあったけど。母親と弟から聞いて、2人は無邪気に笑ってたけど。なるほど〜〜!やっぱりそうだったんだ〜〜!となった。

 

母親の昔話を聴くと、悲しくてかわいそうでたまらなくなる。一度は泣いてしまったこともある。父親と結婚して、私が生まれて辛かったこと、それまで全てうまくいっていたのにうまくいかなくなったこと、うまなければ良かったと思ったこと、ヨーロッパにいつでも行けると言われたのに未だに連れて行ってもらえていないこと、うちにお金がないこと、私にお金がかかったこと、私に手がかかったこと、友人の話、きらきらした思い出、それが私のせいで、父親と結婚したせいで全部、すごく苦労することになったこと。苦労の発端が父親、そして私。

 

かわいそうでどうしようもなくて、生まれてごめんねと思った。お金も手もかかってごめん、父親と結婚して私が生まれて、私は母親が幸せなら、生まれなくても良かったよ。いまからでも、これから母親が幸せになれるなら、命は無かったことにしても良い。父親と結婚せずに、もっと素敵な、お母さんが幸せな人生を歩んでほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本当は生きていたい。本当は、みんなで幸せに暮らしたい。でも、なんでか、うまくいかないんだ私の家族は。そうなってきたら、もう、私が消えるしかないじゃんか。

 

 

 

逃げじゃなくて良かった

 

大学院に通い始めて、まだ1ヶ月目だけれど、博士までずっと許される限り、受け入れられる限りは学び続けたい。というか、絶対その道を見つけて、勝ち取って、研究し続けたい。と思う。だって本当に本当に幸せだから。

 

人に依存しない、自分自身の真の喜びを感じる。

 

大学院に行きたいなぁっていう思い、これがもしかしたら目の前の教育からの逃げかもしれない。そうだとしたら困ったなと思っていたけれど、そうじゃないことに気付けたよ。

 

まだ気が早いかもしれないけれど。自分自身の幸せを見つけられた私は、さらに美しくなると思う。頑張ろうね、私。

 

健康に気をつけつつ、がんばっていこうね。

 

 

あ、もう大丈夫だ。と思った

 

先日、前の職場の人から突然のお誘いがあり、21時から支度を始め、バスと電車と車で移動し、5人でオールをした。一緒に過ごしながら、「なんなんだろうこのメンバーは。一緒に過ごしているのって不思議だなぁ、しかも全然緊張しなくて、楽しい。」と思っていた。

 

「素」の、肩の力を抜いた私がそこにいた。なんとなく前の職場を恨んでいたときもあったけれど、それも無くなった。改めて久しぶりに会って話してみると全然、悪いひとたちじゃなくて楽しくて、私をずっと受け入れてくれていて、全部良い思い出になっていた。

 

ひょっとしたら、私だけが壊れていっていたのかもしれない。あの環境の中で。あの頃の私は本当に苦しんでいたから、今の私が当時の私を責めることはできないし、反省も促さないけれど。ああいう私でも受け入れて、愛してくれてたんだな〜と思った。この先輩たち。ありがとうございました、と思った。

 

男の先輩4人と、それから私。5人でずっと過ごしたけれど、なんでだろうって思えるほど、本当に楽しかった。

 

ちょうど、なんとなく物足りないけれどお風呂に入って、なんとなく外に出かけたいけれど眠りにつこうとしていたとき。そんなときに電話が鳴って、急遽会うことになった。すごくすごく、タイミングが良かった。

 

一緒に過ごしながら、すごく不思議だった。一緒に楽しくいられていることが。初めて、あの1年間と環境と自分の頑張りと苦しさと、一緒に過ごした先輩方を肯定できた気がする。不思議とモヤモヤしていたこと、恨みも、全部消えた。あの楽しい数時間のおかげで。

 

あの楽しい数時間、先輩たちがあったかくて、見守ってくれてて、私もずっと楽しくて、すごく幸せだった。本当はあのなかにずっといたのだとしたら、私のあの苦しさはなんだったんだろうと思う。あるいは当時は違ったとしても、良かった、改めて出会うことができて。そして、そういうあたたかさに気付く私に戻れていることにも気付けて、あ、私はもう大丈夫だ。と思った。