神さまはホントにいるのかもしれないよ

 

仕事帰り、バス停でバスを待っていたら、通りすがりのおじさんがわざわざ自転車を停めて話しかけてきた。

 

なんか話しかけている風だけど、私の方をじっと見ているけれど、距離が近いけれど、話す相手は私じゃなくても良さそう、誰かに話したいだけな感じ、普通に迷惑だった。

 

以前の私だったら相槌うってたけど、刺激しないようになんとなく首を動かして、そっちのほう見ないようにしてた。

 

人間ってすごいよね、みんな顔が違う。

 

という話から

 

生命の神秘

 

に話がうつって、

 

「ねえ、すごいでしょう。神様っているのかもしれないよ」

 

というもんだから、思わず顔を見てしまった。

 

おじさん。神様っているのかもしれないよ、と思いながら死ねたら良いだろうね。良かったね。

 

 

そこから話はコロナ、戦争の話、死ぬことへうつっていった。コロナの話になって、改めて、そのおじさんはマスクをしていなかったから、迷惑だなぁと思った。

 

 

戦争は絶対やっちゃいけない、と言っていた。それについては私も同感だったので頷いてあげた。

 

やれやれ、バスがもうすぐ来るかな、というところでおじさんは、じゃっ、またっと言って自転車に乗って去っていった。

 

 

 

 

これは良い話を聞けた、とか、おじさんがかわいかった、とかいう話じゃない。

 

 

 

 

おじさん、いきなり勝手に話しかけられても迷惑だよ。

 

 

 

 

お前ごときが考えてること、この私が聞きたいわけないだろ。迷惑を自覚しろ。

 

 

 

 

まじで迷惑だった。次からイヤホンする。話しかけられて、びっくりしてイヤホン外してあげちゃったのが悔しい。

 

 

 

テレパシーを信じるおじさん

 

テレパシーを信じるおじさんが来た。役所の、窓口ではなくて私たちが普通に座って仕事しているところに、余りにも自然に、しれっとやってくるもんだから、仕事で来た人かと思った。そしたら、ただの市民だったので驚いた。

 

「いやね、テレパシーって、役所で許可してるの?」

「テ、テレパシー?」

 

そのおじさんが考えているのは、この世にはテレパシーってものが存在していて、その力は悪用できちゃう。例えば、障害や病気で話せない人の考えを読み取るという良い(かどうかは知らないけど)使い方でテレパシーを使う人がいたとする。でも、その人がテレパシーを悪い方向で使うかもしれない。役所ではちゃんと管理できているの?

 

そういう感じの話だった。

 

私は、こういう人を見ると、悲しくなってしまう。堪らなくなって、かわいそうに思ってしまう。ああ、この人は、そういう世界で生きているんだ。あなたがそういうことを言っても、ここでは理解されないこと、笑われてしまうことすら分からないんだ。そう思うと苦しくなる。

 

 

 

でも、その人にとっては笑われることなんてどうでも良いんだろうな。というか、そういうところで生きてないんだろう。私の世界にいない人。入らない人。入れない人。入れてあげられない人。

 

 

 

もちろん私は、テレパシーを管理していない。

 

 

まただ

 

先週も母と言い合いになったし、今日もまた言われてばっかりになっちゃって、でもそんなに私に当たることかな?と思ってしまう。

 

お母さんだって家事嫌いじゃん、と思う。私も家事を好きじゃないけど、それは母に似たのかもと思う。でも母はかなりきっちりやるし、すごいなと思う。丁寧だし、ちゃんとやる。

 

もっと手を抜いてくれれば良いのに。

 

みんないつか死ぬのに私は何やってんだろ。わざわざ研究発表の準備やらなんやらしたり、合わない家族と一緒に暮らしたり、して。

 

私はここから抜け出したいと思ってる。でも、思ってるだけでいつのまにかぬるぬるとここに戻ってきて、それからまた嫌なことがあって、早く出ていきたいと願って、繰り返してる。

一緒に暮らすってめんどくさい。幸せな家族ってなんなんだろ?私が作れるなんて思えなくて。

 

私が唯一、1年間なにも喧嘩せずに一緒に暮らせたのは弟だけ。でも弟と一緒に暮らせるってことは、その他の人とも一緒に暮らせるんじゃないかなと思った。私が、母や父と合わないだけなんじゃないかな。そういうことはある。合うところも似てるところもあるけど、合わないところもたくさんある。

 

私が、私オリジナルの家族を作っていけたら良いな。

 

母の理想の家族は作れなかったけども。私は家族に期待しないでやっていこう。絶対。

 

今まで、自分の名字がお気に入りだったけど、血や遺伝子としてはもはや気にくわないし、名字が変わることについては全くこだわりが消えた。今日。なんか私、いつかこの世から消えちゃうのに何やってんだろ。理不尽な、嫌な思いをするだけもったいないのではないだろうか。

 

母はとっても美人なのに幸せにみえないことがあって、私は美人じゃないけど幸せなことが多い。

 

 

だめだ

 

私は絶対、父親とバージンロードを歩きたくなんかないし、お金がたくさんあれば母親と父親は離婚できるのにと思うし、それぞれでちゃんと生きていってくれたら良いのにと思う。

 

父親に、障害っぽさなんて無ければ良かったのにと思う。

 

母親が、もっと頑張らないでいてくれれば良いのにと思う。

 

でも、ここに生まれちゃったから頑張るしかない。そうでしょ?

 

 

 

母と喧嘩した記録のブログになっちゃう

 

母親が「お金ってあってもなくても喧嘩の種になるんだって。あったとしても喧嘩になるし、なかったとしても喧嘩になるし。あっても不幸せな人はいるし、なくても幸せな人はいるんだって。不思議だね」なんて言うから、ケラケラ笑ってしまった。

 

 

そしたらすんごい、母親のはらわたが煮えくりかえってしまったみたい。馬鹿にしないでよ、と思ったらしい。実際、馬鹿にしないでよ、と怒鳴られた。笑うところがおかしいと言われた。そうかもしれない。

 

 

たしかに私は、『なぁにそれ。「不思議だね」って、なに言っちゃってんの』と思った。そんなこと信じてる母親がかわいく見えた。でも、本当に、なぁにそれ、と思ってしまっただけで、別に馬鹿にしてるつもりじゃなかった。単純に、なに言ってるんだろ、という感じだった。なんか大真面目に根拠もないことを、スピリチュアルなことを、言われているような感覚だった。なに?急に、と思った。

 

 

まあ、私は今、お金のことを気にしなくてすむ立場だから、そんな感じなのかもしれない。

 

 

お金に飢えていた昨年だったら、言葉が染みたかもしれない。

 

 

でも、お金はあってもなくても喧嘩になる……なんて、まあ、言わんとしてることは分かるけど、にわかには信じがたいことだった。だって私は、お金があれば防げる喧嘩を多く見てきたから。そしてお金の必要性を身にしみて感じていた。父親と母親がお金のことで喧嘩してるの、本当〜〜〜に嫌だった。今だってやってるじゃん。あれって、お金があればしてない喧嘩なんじゃないの。……と思ったけど、うちの父親と母親って別にお金のことがなくても喧嘩してるだろうな。でも、お金があればしないですんだ喧嘩もたくさんある。それは絶対にそう。

 

 

だから私は絶対に専業主婦にはならず働き続けるし、お金は大事だと思っているし、ついでに、子どもに自分が疲れるほど投資したり期待したりしたくないし、家よりマンションを買いたいと思っている。まあ、家を買うのは、まあ、別に良いけど。買っても。

 

 

なんか、家を出たいなぁと思う。それは結婚したいと思う気持ちに繋がる。

 

 

なんかさぁ、聞いたところによると、喧嘩しない家庭もあるらしいね。私はそういう家庭に育ってない。私は喧嘩しない家庭を築けるのかな。私はめちゃくちゃ辛かった、母親と父親が喧嘩してるの。母親に怒られるのも父親に怒鳴られるのも辛かった。私は子どもを生むかどうか分からない。自分の家族みたいな家族を作りたいなんてもう思えないし、自分の遺伝子にも不安要素があるから。

 

 

 

だぁ

 

母親からの言葉に死にそうになる。

というか、母親からの言葉に攻撃されながら、私自身も加虐的な気持ちになって、インコをにぎりつぶしたり、メダカをトイレや排水溝に流したりする映像がよぎって、恐ろしくて身震いした。

 

母親からの言葉で、子どもを生むという選択肢がどんどん見えなくなる。私は私の遺伝子を残したいと思えない。そういう意味では、母親からの言葉で死んでいく。永遠に何か続いていくということが生きるということで、それが途切れるということが死ぬということなら、私は死ぬ決断をどんどん強くしている。このことについては弟とも話し合ったことがあるけれど、弟は、そういう考えると暗くなることは考えないと言った。私は、弟なら遺伝子残すかもなと思う。男性優位な日本、遺伝子的にも男性の精子のほうが女性の卵子より保ちやすい、そう思うと弟は多少結婚が遅れたとしても子孫を残す可能性が高い気がする。

 

どうして私(母)を手伝えないんだ、私(母)ばっかり苦労して、お前が家事が嫌いなのはなぜだ。幼なじみの子どもが羨ましい。もらったプレゼントに文句を言ってなにが悪い。

 

と母は言う。私は家事が嫌いだし、手伝う気持ちになかなかなれないし、母親の苦労に気付かないときがあるし、言われないと気付かないことがあるし、母親がどっちを望んでいるのか分からないときがある、母親が望むようなプレゼントを用意できないことが多い。それを障害だと言われて、たとえ世の中でどんなにうまくやれて友達が多くて仕事をしていても家族、母親、父親とうまくやれないなら、優しさがないし思いやりがないし、どんなに頭がよくても良い大学に行っても意味がないなどと言うなら、障害だと思うなら、もう…………無理だな。

 

 

と、思っていたが、むしろ母親は、そこまで、やらなくて良いのでは?爆発するくらいなら家事をやらないでほしい。なにもそこまで家族のためにやらないでほしい。理想を私に押し付けているのでは?そして、プレゼントに文句を言うのは非常識だし私が落ち込んだって良いだろう。私とあなただって似てるだろ。

 

 

私、そんなに駄目かな?そうでもないと思う。

 

 

もしかして私、あなたと合わないだけなのでは?