死んだあとの世界がないということ

 

こうやって文字にすると苦しいような感覚を覚えるのだけれど、死んだあとの世界がない、そういう可能性がある、ということを、もう2年くらいかけてやっと理解しようとしている。

 

 

スピリチュアルな世界だとか、宗教の世界だとか、霊体験や非日常的な体験、そういうものを信じたい気持ちはある。子どもは親を選んでくるとか、物事には全て意味があるとか、そういったことも含めて。こういうことってもしかしたら、もっと細分化されていくもので、死んだあとの世界なんかとは関係ないのかもしれないけれど、でも、私の中では一緒。一緒に考えて、少しずつ納得していくことなんだ。疑ったり、分からないなぁと思ったりしながらずっと考えていくことなんだ。

 

 

〜だと良いなぁだけでは、思考は終わらない。

 

 

こういうことを考えるようになったのは、身近に思える死がきっかけで、そこから派生して考えるようになったことがたくさんある。

 

 

分からないけれど、安易に「こうです。こういうことです、これが真実です」なんて信じて考えることをやめるよりも、考え続けていたほうがいつかそのときが来たときに気持ちが楽だと思う。どうか、その頃までには、今よりも死ぬことが怖くありませんように。穏やかに、意識が無くなることがとんでもなく怖くて恐ろしくて泣いてしまうような形ではなくて、ふんわりと眠れますように。そして、願わくば、私がいなくなった世界を見れますように。そう思っている。

 

 

「私」が終わることは救いだ、と思うし、「私」が始まったことは奇跡だ、と思う。私の命になんてなんの意味もなくて、精子卵子が結合して生まれてそこに当たり前に意識があるんだ、そう、繁殖という本能で子どもを生みたくなって、ただそれは動物としてそうやって、それでたまたま私が生まれた。そんな私は動物の中でも人間として意識を持てたことが幸せだ、人間が良かった、人間で良かった。せっかく生きてるのだから頑張っていろいろやってみよう、興味あることをやってみよう、You Only Live Once……本当に?そうなの?そんな、死んだら終わりだなんて?ぐるぐる思考がまわる。

 

 

いま、起きてしまったこと、を見つめることは時に辛いし人によっては本当に言葉で表現できないくらいの嫌なことだったりする。例えば虐待に意味を持たせるとか悲惨な事件の原因とか、良いことに、どうにか納得できることに繋げなきゃ生きていけない人もいるだろう。でも、そんな、そんな、どんな理由があろうとも苦しいものは苦しく、あってはならないことはあってはならず、考えあぐねたって理由なく理不尽な怒りに巻き込まれたり意味なく殺されたり、そういうこともあるのだと思う。信じられないくらい、意味がないこともある。どうか意味があってほしいくらい辛いことに、なんの意味もない。そういうことばかりなのだろう。

 

 

その一方で、例えば苦しくて泣き叫ぶしかない、そういう人の救いになるのなら、その人が信じて楽になるような世界を話すのも必要なことなんだろうなと思う。その場合はその人のために……その世界を話すことは…その人の苦しさを請け負うことになるのだろうか。その話がその人たちの世界の真実なら、その言葉の責任を負うことは辛くもなんともないんだろうか。

 

 

 

私は、魂なんていうものがあると良いな、来世があると良いな、いろんな世界があると良いな、辛いことにも回収できるような意味があれば救われるな、と思ってる。でも、それだけじゃ考えは終わらない。

 

 

 

 

私がいつかなくなるときに、私は何を思うのだろうか。

なんとなくやること、なんとなくやめること

 

なんとなく、値段やカロリーをみて注文するものを変えることがある。

デザートを頼むのが好きだ。コーヒーゼリーなんて自ら頼むことは無かったのに、最近頼むことがある。カロリーがそこまで高くなくて、安いから。

 

無印カフェには「ガトーショコラとベリーのパフェ」に惹かれて入ったのに、実際に注文したのはコーヒーゼリーパフェだった。値段は半額だしカロリーも低いと予想する。おいしいから良いのだけど、こういう選択をやめたいと思う。

 

これにはルールがあるわけではなくて、なんとなく、迷ったときにカロリーが低いものを選んだり値段が低いほうを選んだりしているだけだ。そしてこれは悪いことではないと思う。

 

なんとなく選ぶときに、健康に良いほうを選ぶのはとても良いと思っている。だけど、今回私がコーヒーゼリーパフェを選んだのはそういうポジティブな理由では無かった。お財布の事情や最近の体型事情から、どちらかというとネガティブな理由でこれを選んでいる。おいしかったし、健康に良いのもコーヒーゼリーのほうなのかもしれないけれど、そういうことじゃなくて、選ぶ過程をポジティブにしたいのだ。

 

そして、食べたいものを食べたいままに選ぶために、私は運動をしたいし、お金を稼ぎたい。だから4月からはジムに行ったりお金を貯めたりしたい。

 

 

 

 

子どもをうむ

 

漠然と家族を作ることに憧れはある、でも疑いなく家族を作ろうとしていた私はすでにいなくて、考え始めると全く意味が分からず恐ろしさすら感じる。

 

子どもをつくるって、なにそれ。なんで?

 

まず、いろいろ書いていきたいのだけれども、子どもをうむのって痛い。帝王切開も無痛分娩もあるけど、結局痛いじゃん。それは分かりきってるじゃん、こわい。

 

 

 

自分のこと以外のこと、子供の人生を背負うという責任の重さも。気になるしこわい。

 

 

子どもが大学院行きたいって思ったときに行かせてあげられるくらい稼げるかな?とか、人生って大変なこともたくさんあるけど大丈夫かな?とか。思ったら止まらない。

 

 

顔、学力、運動能力、その他もろもろ、そういう生きていく上で有利に働く偏差値をできるかぎりあげてあげたいとか。生きやすい環境を整えてあげたいとか。そういうことを思う。生まれてくる子の障害の有無も考える。どんな子が生まれるんだろう。私の嫌なところが似てないと良いな。

 

 

子どもうんだら、たくさんのことが心配だし、大変だし、どういうこと?これは。お金も時間もかかるよ。もはや、どうしてみんな子どもをうむの?

 

 

なにも考えてない人や、全部が潤沢な人しかうめないのでは?

 

 

その一方で、1人うむなら3人くらいはうんで育てたいな、双子や三つ子で一気に育てるのも良いな、とか。養子を育てても良いし、とか。そういうことも考える。

 

 

子どもをうむ。子どもが欲しい。でも、なんでその子どもって基本的にはみんな自分の子どもが良いんだろうね?やっぱり自分の遺伝子を残したいから?

 

 

おじいちゃんが亡くなったとき、ああ、私がおじいちゃんを継いでいるのか、おじいちゃんが無くなるのはもったいない、思いや考え方、つまり遺伝子を遺していきたいなとは思ったことがある。

 

 

ねえ、みんなもそういう感じ?

 

 

なくなっちゃうの、もったいないなと思う。私に関わる好きな人のかけら、思い、良さ、遺伝子、血肉、魂のような諸々。最近お友達のみんなが子孫を残してってるのも、そんな感じの気持ちからですか?

 

 

4月からの毎日

 

こんな自分になりたいということを考えている。こういうことをしたいとか。

このブログでもなんだかんだといろいろ書いてきたけれども、地元にかえる、公務員になると思ってきてて、それを実現できたのかと思うと感慨深い。それ以外にもいろいろ思ってたけども。

 

・似合う髪型、メイク、服装を探す

・料理をする

・体に良いものを選ぶ

・旅行に行く(大阪、シンガポール、沖縄)

・お金を返す 貯める(両親、奨学金

・結婚相手を探す(家族を大切にする人、子どもを育てる財力がある人)

・運動する

・読書

・断捨離

・学会発表する

・定期的に東京にいく

・ピエロにならない

・声をひくく話す

 

兎にも角にも、お金に困らない生活からお金を考える生活を過ごしたので、お金を稼ぐことができるってことが嬉しくて、早く働きたいなという気持ちもある。

カードの引き落としや交通費を考える生活、衣服やコスメを節約する生活、買おうか買うまいか迷う生活とおさらばできる可能性。楽しみである。

とは言え、この自由な生活もあと少しなので堪能したい。学部四年のときのように、先輩方に言われるがままに、悔いの残らないよう予定をぱんぱんにしたり留学したりして心の準備、体力の準備ができなかったころの私とは違うのだ。

しっかりのんびりする。

 

修了式や謝恩会が楽しみなのだけれども、コロナの影響で中止になる可能性もあり、不安である。せっかくなのでやりたいな。

 

 

 

 

 

夏ごろの夢

 

お笑い芸人さんのひとりにはまって、ライブを観に行ったらたまらなくなって私もM-1に出たいやらキラキラしたあの光を浴びたいやら、あっち側に行きたいやら思ってしまうようになった。 

 

芸人をやってみる夢は、新宿の地下劇場を観に行って挫けた。全然おもしろくない人たちがなんかやってて、私はここからスタートするのか、それはちょっと嫌だなと思った。だったらもうちょっと設備が整っている、M-1の予選とかそういうのに出るだけで良いや。趣味で。と思った。でも、やるなら絶対相方にしたい相手にいくら懇願してもやってくれないと言ったので、諦めきれないけれど、諦めることにした。

 

 

そしたら、他に何か無いかな。芸人さんに認知されるような何か。あの人と挨拶を交わせるような、あっち側になれる何か。

 

 

そこで、そういう関連の求人をちょくちょく見るようになって、下心だけでどうにか「あっち側」に滑り込むことができた。

 

芸人さんのために、マイクのテストやらマイク渡しやら映像や広告作りやらする仕事だ。芸人さんは私を認知するとまでは言わないけれど、そばにいる。話すこともある。芸人さんが挨拶してくれる、話ができる、近くにいる。そういう楽しいだけの仕事だった。私じゃなくても良い仕事、いつでもやめられるような気楽な仕事。ピンマイクやハンドマイク、サンパチ、いろいろな用語を覚えた。イラレ、トライキャスト、使えるようになった。芸人さんの個人名をたくさん覚えた。

 

もうやめちゃったけど。

 

で、とうとう念願のあの人には会えなかった。あの人と仕事してる芸人さんとはたくさん会えたけど、あの人にはすれ違いもしなかった、惜しくも。いつもいつも、惜しいところで会えなかった。

 

 

以上、下心だけで続けたバイトの話。

 

痴漢とはなにか

 

最近、「痴漢とはなにか 被害と冤罪をめぐる社会学」という本を読んでいる。

読んでいると言っても、まだほんと、序章くらいしか読んでいない。読むのが辛い。イライラしたり悲しくなったり、感情が安定しないままに読む感じで。

 

生徒たちから、ふとした話の流れで「先生は痴漢にあったことがありますか」と二回ほど聞かれたことがある。いずれも三年生、ある程度関係ができている子たちから。男女3〜4名で男子の割合が多い状態で。

 

こういうのって、「ない」ことを前提に聞かれていたり、相手(この場合は私)を茶化す目的だったりするので、解答が難しいなと感じた。こういう質問をしない配慮ができるような人間になってほしいなぁと思いながら解答した。この思いがちゃんと伝わったかどうか分からないけれど、とにかく私は解答している。

 

最初に聞かれたときは、なんと答えれば良いのか分からず、黙ってしまった。すると男子生徒は困ったように「黙らないでくださいよ、え、あるんですか」と言った。「ある、あるけど、みんなが無いなら良かった。こういうの、今の雰囲気で分かったと思うけど、デリケートな質問だから今後控えるようにね」と伝えた。

 

2回目のときは、「そういう質問は相手を傷つけることもある」と、まず返した。話を聞きたがる無邪気な男子生徒、性的な関心で内容を聞きたがっていることは分かっていたので、「じゃあ今後そういう質問を他の人にしないために、体験を話すよ」と話した。思い出すことすら辛い、嫌な経験であることを伝え、重いトーンで経験を語ると、その生徒はニヤニヤしていた顔をこちらに向けなくなり、俯いて聞いていた。そして、話終わると取り繕うように「へえー、それは嫌だな」とこちらを向いた。「気を付けてね」と他の女子生徒に声をかけ、「大変でしたね」「警察には言ったんですか」と私に返した。

 

こういうやりとりが教育的に正しかったのかどうか。彼らはもう忘れているかもしれないけれど、私は覚えている。どういう返しが正解だったのか分からないなと思う。

 

私は電車内で痴漢にあったことがある。思い出せるのは2回だけれど、その2回も、気付くのに時間がかかったので、気付かないようなものもあるんだろうなと思ったことを覚えている。

1回目は、スカートをはいたおしりの上からずっと、おそらく、性器を押し付けられていた。混み合った山手線の中で、なにが当たっているのかという違和感はあったが、特に気にしていなかった。しばらくして、どんなに場所や角度を移動してもその違和感がついてくることに気付いて、ひっついてくるそれに気付き、痴漢だ、と思った。

2回目は、職場に向かう電車の中で。手の甲をずっと私の股間に置いてくる男性がいた。うつらうつらしていたので気付かなかったが、大きく揺れると押し付けてくる、その違和感。人を挟んでもずっとついてくる手の甲に気付き、あ、痴漢されてると思った。思ってもうまく巻けず、その人は電車を降りていった。

どちらも気付いてから、強烈な不快感、怒り、イライラに襲われて、しばらくモヤモヤすることになった。こういうの、どうやれば捕まえられるんだろうか。

 

身近な人からの「痴漢」だってある。痴漢と言えるような行動をされたことがある。正直、これを痴漢としたら、私はものすごい数の被害に遭っていることになるので認めたくない。でも、認めないと先に進めない。次からはこういうことをされたら逃げる。そう思っている。痴漢というには違和感がある。セクハラか。あれは。

 

例えば、上司が私の膝の上にまたがるとか、エレベーター内で2人っきりになると絶対よりかかられるとか、机の上に押し倒されるとか、そういうのってセクハラじゃないですか?冗談だとしても。ある程度関係ができていて、私が笑っていたとしても、これはセクハラになりませんか。次から、そういうことをされたら、私は逃げます。ヘラヘラしちゃうのは私の悪い癖だけれど、これからはそれを痴漢だと、セクハラだと認識して逃げようと思います。

 

生徒たちがセクハラ、痴漢の被害に遭いませんように。そして、当然のことながら、それをする側にも、被害にあった人を責めるような人にも、なりませんように。もう先生じゃない私は、ただ祈ります。