外食が特別なものになった

 外食にかかる消費税が10%になったことと,私の生活が決して豊かなものではないことが関係しているけれど,これはこれで良いことだと思う。外食が特別なものになったこと。

 

 大学生や社会人のころ,外食三昧だった。あの頃は簡単に外食してた。ひとりでも,誰かと一緒でも。カフェも。(いま,カフェのフードやら期間限定のフラペチーノやらがほしくなっても,持ち帰る。だってほら,8%でしょう。)あの頃だって外食は楽しい,明るいものだったけれど,いまではそれに特別感があわさって,私にとって外食は豊かで幸せの象徴みたいな印象になった。

 

 家族とか,祖父母とか,友人とかと一緒にするあったかい特別なもの。

 

 先日,祖父母とお寿司を食べに行ったらそれがものすごくおいしくて,個室だったこともあってたくさん笑ってたくさん喋ってとても幸せな気持ちになった。おいしかった。あれからお寿司が食べたくなっても,スーパーのお寿司がどうしても美味しそうにみえなくて我慢している。

 

 そういえば,これは外食が特別になったことと,私の予定管理ができるようになったことの両方が関係していると思うのだけれど,最近の私は友人との食事を心待にする心の余裕ができた。

 

 予定が詰まりすぎてて,外食ばっかりで,予定帳をみてため息をついていたような私,ついでに肌荒れにも悩んでいた私。なんて贅沢で恵まれていて,でも不器用だったんだろう。

 

 さて。頼んでいたシェフサラダがきたのでここで一旦終わる。

 

 大好きなロイヤルホスト,月に一度の楽しみなランチ会場にて。

 

 

この気持ちはなんだろう

 

説明がつかないような心境を,昔は涙を流したり人にあたったりいろいろして考えることを避けていた。あるいはうまく消化していた。

 

 

今日は試験の日だった。昨日は親と言い合いをした。仲直りはできたと思う。今日,試験後,弟から「このときの試験に落ちてたよね」と言われたり「本当よく怒られるよね」と言われたりした。

 

 

書いていて,イライラしてたことに気付く。弟に対して,お前に何が分かる,と思ったんだ。だんだんと怒りに変わってきた。これは良くない。良くない。弟はまだ大人になりたてなんだから。弟を許そう。

 

 

誰かに甘えたい,という感情だったかもしれない。なかなか寝付けなかったのは。

 

 

誰にももう甘えられなくなってしまった。弟にも親にも甘えてたけど,もうそろそろ大人にならなければいけないときがきた。

 

 

兎にも角にも,お前に何が分かる,という感情は何も生まない。早く寝てしまおう。

 

 

あなたたちが不倫をしたとしても

 

 

 

不倫。浮気。二股。恋人以外の人とのエッチ。

そういう話を聞くことがある。

 

というか,私の周りの友達はほとんど全員が経験しているように思う。どうしてだろう。そうだけれど,私はそういう経験はない。ないと思い込んでるだけかもしれないけれど,行動としては未遂なはずだ。気持ちの面ではあるかもしれないけれど実際の行動には残っていない。

 

この年齢,27歳くらいになると,そういう経験がないほうが少ないのかもしれないと思ってしまう。絶対内緒にしている人だっているだろうし。私も,もしそういうことになったら黙っておきたい。

 

もう少し若い頃はそういう話を聞くと,否定はせずとも,なんとなく距離をおくこともあった。特に自慢げに話すこ,あるいはなんの悪気も無さそうに自分に酔いながら話すようなことは,分かりやすく距離をおいた。ちょっと危ない人に見えて。その子の想像力が足りないような,人としての配慮がないような気がして。でも,最近聞いた話だとまあ不安定な状況でそうなってしまっていたり,久しぶりの恋だったり,それでもやめておいたほうが良いよとは思うし,親友の場合には私の意見も伝えるけれども,基本的には私は見守るしかないなーと思う。

 

いままではもう少し感情が動いていた。

軽蔑だったり,心配だったり,相手への怒りだとか。でも今は,自分と他者との境目が少しずつ分かってきたこともあって,心は波打っていないと思う。新しい冷静な私に気づく。

 

不倫をしたからといって,あなたのその全てを否定しない。私はあなたの良いところをみて,そこを持って関係を続ける。でもあなたがどうなるかは分からない。でもあなたがどうなったとしても,これからも友達としてよろしくと思ってる。

 

セフレ,への理解。そして二股と浮気への理解をこえて,不倫への理解まできてしまった。

高校生の私だったら考えられなかったことだな。

 

 

 

好きなもの(者)ができた

今週のお題「夏を振り返る」

 

この夏,ある芸人を好きになった。今日もその芸人のライブに行ってきた。

 

 

フェスやライブ,あとは美術館によく行くけれど,特定のものを目当てに行ったことは無かった。ふらっと気分で気になったものに行く。そういう程度。

 

 

でも,今回は違う。その人目当てに,チケットを購入して,その人目当てに前日の夜からワクワクして,おしゃれして向かう。当日は早めに到着して,近くのお店で時間潰して,開演にはあと30分あったけども入口をくぐった。

 

 

この建物のなかのどっかにいるんだろーなと思ったらドキドキした。ここでアルバイトでもしようかな。音響とかやりたいな。ああ。

 

 

で,観たら,ああ,こんなに近くで喋ってくれて嬉しい,おもしろい,かっこいい。でも1回目の失望感は無くて安心した。認知してくれないという辛さ。それは軽減されていた。

でも,でも,観ているあいだ,かわいくなりたいと願った。彼の目にとまるくらい,かわいかったり有名だったりしたい。私を知ってほしい。やっぱり,認知してほしい。

 

 

彼は仕事している。私も研究を頑張ろう。私も頑張って,チケット代は自分で稼いで,好きな限りはいつまでも観に行こう。

 

 

好きなものがあるって嬉しいなと思う。飽き性な私だけど,この感覚は良いな。好きなもののために頑張る。こうやって自分のために生きていきたいな。そういうきっかけやら諸々があって,改めて人生観も変わった。

 

 

いままでは,辛くても辛くても,私がやらなきゃっていう使命感のなかで仕事をし,仕事を探してた。でも,私がやらなきゃいけないなんて,そんなことそうそうないなと最近気付いた。私がやらなくても,だれかやるんだなーと。私で良かったことはもちろんあると自負してるけど,私が苦しみ続ける必要はないんだなと。だって,苦しまなくても出来る人がいる。そうであれば適任にやってもらったほうが良いんだ,と。あるいは,適任なんていない(みんながその仕事では苦しむ)としても,苦しいことを自ら引き受けなくても良いんだなと。今更ながら。仕事が全てだと思ってたけど,そうじゃないなと思った。仕事を全てにしようとして,自分を捧げようと思ってたけど,そうするべきだと思い込んでいたけど,そうじゃなかったみたい。

 

 

 

私は,私の選択で出来てるんだな,と思った。やらなきゃやらなきゃっていう使命感に押しつぶされそうになっていた。やらなきゃ,じゃなくて,私は私の人生を謳歌して良いんだね。誰かのために!って思いは,もう少し薄めても良いかもしれない。自分と他人への愛の配分を変えてみても良いかも。

 

 

 

 

強いて言うなら,私がやらなければ誰もやらないことは,私自身の研究くらいかな。これはすごく嬉しい気付きだった。頑張る。意味のあるものにできるように。

 

 

 

 

好きなことをしていこう。私が喜ぶ選択をしよう。それは私にしか出来ないことになる。この夏の気付き。

存在を認知すらしてくれない相手

 

自分の存在を認知すらしてくれない相手を好きって,どうすれば良いんだろう。ジャニーズとか,アニメのキャラとか好きな友達の話,あまり共感出来ないままに流していたけれど,いま,私もとある芸能人ってやつにはまってしまい,どういう心持ちでいれば良いのか不安である。

 

 

いま,好きな芸人がいる。7月あたりからずっと好き。たったの1ヶ月程度だけども。一度YouTubeごしに喋っている姿を観て,こういう感じ好きだなぁと思ったらそのままずぶずぶはまって,昨日ライブに行ったら,やっぱり,うわあ,好きだ!と思った。はしゃいだ。

 

 

舞台袖から出てきたとき,わ!!と体がのびた。やっと会えた!!というような,気付いて!!というような不思議な感覚。漫才中,彼と目があったような気がして,わ!!と嬉しさが溢れた。でもすぐに,次の瞬間に,はたと気付く。彼が私を私として認識してくれているわけではない。そもそも,私を見るわけがない。万が一,たまたまこちらを見ていたとしても,彼は私のことを知らないんだ。サクッと寂しさが胸を切ってくる。でも,興奮しているから気付かないふりができる。

 

 

 

 

それにしても芸人のみなさんが,あまりにも楽しそうだったので,ああ,私も漫才やりたいなと思った。人前で喋って笑わしたい。ずっと思ってきたようなことのように思えた。私の人生に相応しい行動。仕事にすると思えるほどの決意ではないけれど,とりあえず,やってみたいなと思った。そして,もちろん下心みたいなものもあった。漫才をやることで,彼に近付きたかった。出来ることならどうにかして彼に出会いたい。少しでも近くに行きたい。彼と同じ世界を観たい。

 

 

 

その夜,その勢いのままに,M-1の予選に応募しようと思い,締切まであと1日あることを知って,相方を探した。勢いで探し始めて気付いたのだけども,意外と,こんなギリギリの時期なのに相方探しをしている人はたくさんいた。そしてなんとなくそういう人たちともやりとりした。勢いってすごいよ。

 

 

しかし。

 

 

今日,相方の候補である何人かと会ったり,劇場に行ってまだプロでない芸人の人たちのネタを観たりした。でも,うーーーん,簡単に言うならば,私は出来る自信をなくしたので,誰とも組まずに帰宅した。キラキラした世界の前の世界みたいなものをみて,そこにいるたくさんの人たちをみた。そして,おそらく私が漫才を始めたら,私は漫才をここで出来るのだろうけど,そこはなんだか楽しそうではなかったのだ。夢が弾けたような感覚になった。当たり前だけど,努力が必要な場所だったなと思った。キラキラの世界にも,その前の世界にいるにも,努力は必要だった。当然のこと。楽しいだけじゃない。

 

 

 

 

学生お笑いとか,プロの舞台とか,そういうものとは違った息苦しさがあって,でも私はきっとここで始めなければいけない。出ている人たちが悪かったわけじゃなくて,それぞれにおもしろかったけども,なんなんだろうね。私がやりたいとまでは心が動かなかった。

 

 

 

 

昨日の夜,妄想や夢の勢いで突っ走っていれば相方を組んでいたのだろう。でも,そのときはとっても甘く考えていて,研究もどうにかなるだろう,私だったら大丈夫,いざとなれば全部出来る,そういう気持ちだった。良かった,その勢いのまま走ったらまずかった。研究も漫才もものすごく時間がかかることなのに。

 

 

 

 

そういうことに気付けたので,とりあえず行動してみて良かった。だって,行動しなかったらずっと事あるごとに挑戦したいなとか思ってみたり,やりたいことリストの中に入ったままだったりしたかもしれないから。

 

 

でも,そんな甘い世界じゃなかったなと思うと同時に,芸人の彼がすごく遠い存在だってやっと気付いてしまったもんだから,意気消沈して,その気持ちは失恋したみたいな感覚に似ていて,飲み会の約束も断って帰宅してしまった。この落ち込みを,一人で考えたかったから。

 

 

 

 

そして一番最初に記述した疑問に戻る。存在を認知すらしてくれない相手をものすごく欲しいと思ってしまうこの感覚,独り占めしたいとまで思うような乱暴な好意を,どう処理したら良いのか?

 

 

 

 

こんなこと思う自分が存在して良いのか。だって,向こうは私のことを知らないんだよ。滑稽だ。

 

 

 

とりあえす今の結論としては,彼と頑張る分野は違う,働く場所も,感覚も違うけれど,彼と同じくらい頑張るということでこの気持ちを昇華させることにした。彼も頑張っているのだから,私も頑張れる,という方向だ。彼が頑張ったくらい(それは計り知れないけれども),私が頑張ったら良い。世界は違えど,対等になれるのではないか,という考えだ。

 

 

 

脳内の彼が認めてくれる(彼は研究のことなんて分からないと思う)であろう研究をやり遂げよう。いつ会えても良いように,かわいく,きれいでいよう。恥ずかしくない私でいよう。

 

 

 

いまは,YouTube上の彼の断片をかき集めるようにして,好きだ好きだと思っているけれど,いつかこの感情もなくなるかもしれない。そうなるまでは思いっきり好きでいて良いし,ライブに行く。それで良いのではないか。そして,ちょっとだけ残った冷静な部分を書くと,いま,今のこの状態だからこそ,ここまで好きになったのだということは否めないと思う。

 

 

 

 

 

私が彼を好きだと思うことは,彼が私を助けてくれているということだ。いつかの私がこれをどう思うかは分からないけれど。

 

 

 

 

 

 

ここまで分析してやっと,私は彼を好きであることを許す。私のことを知らない相手に対して,勝手な苦しさを感じている自分,意味の分からない愛を持つ自分を,受け入れられそうだ。

ロイヤルホストにて

 

「あと1日しかな〜い。1日しかないよ〜。」と,こどもが言っていた。夏休みのことかもしれない。8月のことかもしれない。

 

 

なんにもしない日がある。なんにもできない日。8月に入ってグッと増えた。なんとなく,なんにもする気が起きなくて,でもやることは頭の中にあるから出来ないことにストレスが溜まる。そのストレスを発散する勢いを利用して,一気にタスクをガーッとこなす。

 

 

なんにもしない日があると,本当になんにもないままに次の日になるので,タイムスリップしたような感覚になる。死ぬのがこわいとか,意識がなくなるのを恐ろしく思う回数が増える。人生における余計な心配が増える。

 

 

少なくとも,弁明するのであれば,なんにもしない日は自分が充電できる。そのあと外に出て,人を見たり人がいた形跡を感じたりすると驚く。私が世界に一人だけ,私イコール世界,のような感覚になっていたことに気付く。こんなに人がいるんだなと思う。電車に乗ったり,ちょっと歩いたりするだけで未知のことがたくさんある。たくさんのことをした日やたくさんの人に会った日は,次の日の予定がないと安心する。人と会うのも好きだけれど,ひきこもるのも同じくらい好きだ。良いバランスでやっていきたい。

 

 

結婚とかこどもとか,そういうことは当たり前にするものだと思っていたけれど,そんなこともないなと思う。私は結婚しないのかもしれない。子どもを持たないかもしれない。でも,私の人生だからね。死ぬことを考える時間が増えて,そうだなーと思った。人と離れゆくことを思った。死ぬことの恐怖は消えないし,どうせ死ぬんだからと気楽に考えられない。でも,私が私として生きる人生が一回だけかもしれないなんて考えたくなかったけれど,どうやらそうかもしれないとは受け止めざるを得なくなった。

 

 

そこで,何か考えるときに,これは私の人生だからな,と思えるようになった。これが私の人生だなんて,分かっていたようで忘れていた。また誰かの目を気にしていた。これ,そうだ,私の人生だった。偉くなってくれよ,と言った校長のことも,いままでの生徒や保護者のことも,親のための世間体も本当は気にしなくて良いことだったんだな。