「死」への恐怖

 

助けてくれ、と思う。夜にゴォーっと押し寄せる死への恐怖が止まらないのだ。

 

 

 

インターネットに頼る。人は死んだらどうなるのか、死後の世界、死への恐怖、臨床体験、前世の記憶、神さま。幽霊、事故物件。眠ることに似ている、痛くない、こわくない。歴史上のあの人も有名なこの人も死ぬことをこわがっている。

 

 

 

 

死後の世界なんてないんですよそうです頭が良い人がそれに気付くのです死にそうになった人がみるという美しい世界あれは脳が見せている幻なんですよ脳が死ぬことを恐れないように見せているんですよ全部論理的な説明がつきます

 

 

 

 

なんて恐ろしい。そんなことを読みたいんじゃない。

インターネットが私を救ってくれない。

 

 

 

 

私という概念が消えてなくなって世界が続いていく。私が消え落ちることへの恐怖、なにも考えられないなんて???なにも???なんにも考えられないの???私がいないの???そんな、そんな、そんなに恐ろしいことがあるのか。

 

 

 

恐ろしいことすら分からなくなるなんて。

 

 

 

私が生まれる前の記憶を思い出せない。それも、意識がないことの証明のようでこわくなってきた。脳内の私が喘ぐ。

 

 

 

 

助けてくれ!!!

 

 

 

 

漠然と神さまはいるのだと思っている。それは幼稚園の頃の教育によるもの(キリスト教の幼稚園に通っていた)だ。私は信じている。神さま、それぞれに信じる神さまはいらっしゃる。そばにいてくださる。見ていてくださる。

 

 

 

 

でも、果たして、死んだらどうなるのかは分からない。

 

 

 

 

この恐怖の始まりは、動画アプリでギロチンについての豆知識を聞いて(観て)しまったせいだ。そこからギロチンについてインターネットで調べ、死後の意識についてまで気持ちが向かい、インターネットに助けを求めたのだった。

 

 

 

 

インターネットにはなんでも載っているはずという期待があった。

 

 

 

 

でも、死後の世界についてはなんにも分からなかった。お坊さんの言葉も宗教のお話も大切だけれど、セラピストの方の力も、信じるけれど、それだけじゃ納得できなかった。信じてる。こわい。信じてる。亡くなったおじいちゃんもおばあちゃんももうなんにもなくなって消えているなんて思えない。はい終わり、なんてことないでしょう。この感覚が嘘だと思えない。そう思えている私が証明の根拠。でも、もっと安心したい。

 

 

 

 

本に救いを求めた。いま、焦るように眼球が動く。お願い、お願い、助けて、助けて、と思いながら眼球が動いて文字をさらう。溺れるように文字を掴むもんだから、何度も戻って読み返す。ああ。助けてくれそうな光を感じて。

 

 

 

 

 

 

教え子が死ぬかもしれない大病を患っている。

昨年、教え子が教育現場での事故で亡くなった。

友人が死のうとしていた。

 

 

 

 

そういえば、友人が自殺未遂をした。

 

 

 

そういえば、教え子が手首を切ろうとした。

 

 

 

そういえば、教え子が家の窓から飛び降りた。

 

 

 

 

始まりはギロチンだったはずなのに、もうギロチンのことは考えていないのに、その代わりに身近な「死」が私に押し寄せてくる。死について考えさせようとする。

 

 

 

助けてほしくて本をめくる。

 

 

 

 

 

助けてくれ。救われたい。

私を救ってくれ。お願い。