私の生徒が死んだ

 

 

「どうだった?通夜と告別式は?」

「当たり前のことだけれど、太陽君はどこにもいなかったよ。もういないんだなぁってことが分かった」

 

 

目の前で行われるお焼香を食い入るように見つめて、失敗しないようにお別れしようと思っていた。何度も脳内で練習して、いざ順番が回ってきたら、なんにも練習が役にたたなかった。

 


太陽君は死んでいた。

 


泣いちゃだめ、泣いても良い?、お辞儀をしなきゃ、泣くの?、太陽君、太陽君、太陽君、、、太陽君

 


最後のほうは名前だけ、ずっと名前だけ連呼していた。長かった。短かった。もう終わってしまった。

 


太陽君にとって世界はどのようなものだったのか。良いものだったときが少しでもあっただろうか。死んじゃったあとに何をしてあげても、部活のジャージを飾ってあげても、着せてあげても、お気に入りのものを置いてあげたって、買ってあげたって、お花を飾ったって、なにしたって、もう太陽君は死んでいる。なんの意味もないように見えた。なにを今更。もう、取り返しがつかないことだよ。死んだあとに何をしたって。

 


このとき、私は本当に、本当に、取り返しがつかないという言葉の意味を知ったと思う。

 


最後にもう一度会えるような感覚で、お通夜にいこうとしていたことに気付く。実際は(当たり前だけれど)最後に会えるわけじゃなくて、ジャージやお花が虚しく置かれているだけだった。控えめに照れたように笑っている太陽君の写真を見たら、あれ、あなたはどうして死んでしまったんだろう、あなたにとって世界は生きづらいままだったかもしれないね、と思ってしまって悲しみが目から口から溢れた。

 


彼にとって、やりたいことをやったら、怒られる世界だった。たまたま、16年間の中で彼の中のやりたいことが悪いことに直結するとき、しかもその欲求に行動していた時期があって、いま、まさにそのときに死んでしまったように思えている。そんな時期に死んでしまったように見える。でも、その一方で、頑張っていた瞬間も、好きなものに対して努力していた瞬間も私たちは見ているから、いたたまれない。

 


あなたたちがころしたの?だれのせいでしんだの?

 


これから先、私は密かに思ってしまうと思う。これから先、指導方法について、私の指導について彼らからなにを言われたとしても、でも、そんなあなたたちの指導の中で、彼は死んだんだよ、と思うと思う。

 


いくら、本人の意思やご家庭の意思を尊重していたって、いくら、本人が大丈夫ですと言ったって、やると言ったからって、それで本人や家庭に責任があるというように見せたって、だめなんだよ。

 


本人が断れるような環境だったのか。

本人が何かを断れるような関係だったのか。

休憩は十分だったか、休ませてほしいと言ったときに疑わなかったか、そのときの口調はどうだったか。

 


普段のあなたたちを、普段の謹慎者への指導を見ているからこそ、疑ってしまう。そして、私自身もそういう危なかしさを持って指導したことがあるからこそ。

 


隙がない、完璧すぎる説明が疑わしく聞こえる。随分時間をあけてから、十分に準備してからのそんな説明は誠実でない、そんなことを思ってしまうのは、私が混乱しているからなのか、生徒の死を、太陽君の死を受け入れられないからなのか。

 


自分の身を守るんだよ、大切にするんだよ。

世界はここだけじゃなくて広いんだよ、いろいろな世界があるんだよ、いろいろな人がいるんだよ。自分のことも相手のことも大切にできるように、向き合うんだよ。

そういうことを教えられるのが教育じゃなかったか。教育って未来のためのものじゃなかったか。私はそういう世界をつくりたいのではなかったか。

 


通夜の帰り、帰り道の空は本当に本当に美しかった。立体的な雲と、あわい青と赤と白と混ざり合って美しかった。太陽君が見せてくれてるのかなと一瞬よぎったけれど、良い空だね太陽、とまで思ったけれど、太陽君はそんなことしないよね。そして、良い空なんていまの太陽君には微塵も関係ないよね。だって死んじゃったから。勝手に空に意味付けるなんて、勝手過ぎるよね。