この人のぶんまで生きようと思うこと

 

父の兄は、30代で死んでしまっている。

 

あまり詳しく聞いたことはないけれど、お兄ちゃんの部屋に入ったことがあって、そのときに大量のノートがあって、落書きのように書かれた文章を読んでしまったことがある。

 

読むときにごめんなさいと思ったし、あまり読まれたくないんじゃないかなと思って、すぐに閉じてしまったけれど、暗い文章だった。でもそうやってノートに書き留めることで楽になっていたんだろうと思う。私もそうだったから。内容的に、受験期のノートかな?と思った。

 

そのお兄ちゃんの気持ちが丸々そのまま分かるということは無かったけれど、そういうことを書く気持ち、ノートに吐き出す気持ちはすごく分かるような気がした。そして、これがこの人の全てじゃないってことも。これはほんの一部で、辛いことばかりだったわけじゃないってこと。すごく友達が多くて頭が良い人だったみたいだし、明るくて優しかったらしい。

 

お父さんのお兄ちゃん、東京大学に行って、社会人になって、もっと勉強したいと思って、東京大学に再入学したんだって。でも、そのあと、早くに亡くなってしまった。

 

今、書いていたら、おばあちゃんとおじいちゃんの悲しさとかお父さんの寂しさを思って泣きそうになってしまった。

 

 

 

 

私は小学生低学年の頃から目が悪くなっていって、目薬をさすことでどうにか治そうとしていた頃、「いつか目薬をさして、それがそのままレンズのようになるような、そういう薬ができないかな」と言ったことがある。

そしたら、お父さんは「それはパパのお兄ちゃんも言っていたなぁ。そうなるかもしれないね」と言っていた。

 

私がパパのお兄ちゃんの生まれ変わりだったとしたら、全然記憶が残ってないから申し訳ないな、なんてことを思った。

 

ぼんやりとそういうことを思う。

 

お兄ちゃんの顔は当然のことだけれど写真でしか、しかも1枚の写真でしか知らない。遺影。

……と思ったけれど、そういえば、お兄ちゃんとぱぱ、ふたりで小さい頃に写ってる写真も見たことある。ぱぱは生意気そうな顔してて、お兄ちゃんは優しそうだった。

 

今は、生まれ変わりなのかもなんて思うことはないけれど、考えることがたくさんあったお兄ちゃんのぶんまで生きようと思う。

やっと言葉としてまとまったけれど、幼少期、父の兄が死んでいることを知ったときから考えてきたことは、こういうことだと思う。

 

 

 

 

おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さん、私の周りの大切な人たち。

死んでほしくないということは本当に小さい頃からずっとずっと強く強く思っていた。たくさんのことを経験していて、そういうものが全部、死んでしまったら消えてしまうような、そういうのって本当に寂しくて悲しくてもったいなくて、それを考えたら心の処理が追いつかない。

 

でも、ふと思う。

死ぬことに関係なく、みんなの良いところや気持ちや経験や言葉は私のものにして、例えば、みんなが出会えなかった人にも伝えていきたいと思う。そうやっていったら、その人が死んだらそれで全部消えちゃうんじゃなくて、何年たっても何百年たっても少しずつ少しずついろんなところに、みんな残っていくんだと思う。私も含めて。