窓ぎわのトットちゃんを読み終えてしまった

 

急に終わるもんだからびっくりした。

創作されたものじゃないから突然終わるんだ、めでたしめでたしで終わるわけじゃないんだとは理解できたけれど、それにしても空襲でみんなバラバラになって、それで終わりだなんて!

 

トットちゃんはまた会えるから寂しくない、だなんて安心して汽車の中で眠ったようだけれど、私は寂しくなってしまった。いきなり終わったような、いきなり戦争に終わらされてしまった感覚。でもこれが本当のことなんだもんね。

 

それで、普段はあんまり読まないあとがきまで読んで気持ちを慰めた。なんだか苦しくなっちゃってね。感受性が豊か、という言葉でよく片付けられてしまいそうになるけれど、それじゃ片付けてほしくない。やりきれない気持ちになってしまった。

 

それで、単純な言葉になってしまうけれど、改めて戦争はいけないなと思って、自分自身も私の子供にも私が教えた生徒たちにも絶対経験させたくないから、世界や日本や、いままでの歴史を知らなければと思った。そして今の世界と日本の状態を。

 

インターネットは膨大過ぎるけれど、学びの場として1つ選択肢にはおいておくとして、まずはうちの学校の授業を受けようと思った。うちの学校は生徒のために、最低限の知識、知らなきゃいけないことを厳選して、勉強が苦手な子供たちにしっかり教える学校だから。

 

時事問題演習と日本史を受講しよう……、四月から。授業見学はいつでもして良いことになっているから、大丈夫だと思う。忙しい日以外はちゃんと出席しよう。

 

追伸だけれど、小児麻痺の男の子は死んでしまったけれど、小児麻痺って読んで無意識のうちにこの子は死んでしまうな、と予感したというか期待したというか、そのとおりに死んでしまってそのことも記されているんだけど、私はその部分を読んで泣きながら、「ああ私は死を予感、期待していたのかも」と気付いて、「そうだとしたらなんて酷いんだ」と思った。でももっとよく考えてみると、親友の死をトットちゃんがどのように思うのか知りたかったのかなと思った。(それでもまだ罪悪感はあるけれど)もう少し考えてみて、死んでしまうような気がしてそれが不安で、早くどうなってしまうのか知りたかったような気もした。(それだって失礼だね)でも失礼だったり悲しませたり不快にさせたり、そういうことをしたくて、そんなことを思ったのではない。ごめんなさい。

 

 

私は尊敬する。愛する。トットちゃんとトットちゃんの周りの全ての人を。だからみんな幸せであったのだと思う、願う。

 

 

トットちゃんやトットちゃんの仲間(に限らずだけれども)、人が死んでしまうことなんて考えたくないのに、みんな年を重ねていって、それぞれ人生を、私よりも早く終えてしまう。それが悲しく、寂しく、どうしようもなく苦しい。