私の勤務先は底辺校だけど、でも私は底辺校を愛している

 

愛せるようになった。

 

なぜかっていうと、上司から「あなたらしくやれば良い」「あなたが楽しいと思う方向に進めば良い」と言われたからだ。

 

それまで私は、なめられちゃいけないとか厳しくしなきゃとか言うことをきかせなきゃとか、そういうことを頑張っていた。叱るときにはこわくならなきゃ、注意してるときはこちらを向かせなきゃ、反省させなきゃ。と。

 

そういうことを頑張るのって結構私にとっては辛くって、でも、生徒に寄り添ったり好きだという気持ちや優しい気持ちを見せたりすると足元をすくわれたりする世界だったから、頑張らなきゃいけなかった。一年半くらい。

 

今まで生きてきた世界とは違う、騙されたり嘘をつかれたりする世界。

 

一年半過ぎて。基本は優しいけれど怒るとこわい、と言われると嬉しかったり、安心したりするようになっていた。

 

そこで、私は怒ることに歯止めをかけなくなっていっていたんだと思う。だから。言われた。

 

「感情的に怒っているね。指導より感情が先にきているね。先生から支配されるから、先生を好きだと感じるんじゃない。先生自身が魅力的だから、先生が自分のことを知ってくれていると思うから、好きだと思うんじゃないか。大切に思われてると思うから、慕うんじゃないか。怒られてこわいから言うことを聞く、で良いのか。尊敬する先生の言うことだから、聞こう。そう思われるほうを目指すべきじゃないのか。」

 

えっ、と思った。感情的に怒っているつもりは無かったから。それに、計画的に、相手を導くために叱ってるつもりだったから。でも、客観的に見たらそうだったんだろうと思った。

 

すっごく恥ずかしかったし、悲しくなった。そして、一年半はなんだったの?とまで思った。

 

でも、しばらくして、言葉を粗略して、ここから自分が進むべき方向に進めるんだと思った。おかげさまで気付けたんだと。私にとって怒ることは本当に難しくて、生徒から色々言われるのが辛くて、常に緊張感があって、やっと怒りを出せるようになって嬉しかったり、でも怒りを出すのってしなくて良かったことで変に努力しちゃってたんだなと思った。そう思ったら馬鹿みたいだった。辛いなと思った。(これはこれで極端だったと数日後に気付くんだけど)

 

そういう言葉をもらったあと、日常を過ごしていたら、一度で相手が聞かないと、胸からグググッと何か怒りのような感情が湧き上がってくることに気付いた。それをそのまま言葉にしていたことに気付いた。だから、それをほいって投げることにした。言葉にするんじゃなくて。その感情を捨てて、次の言い方を考えることにしたのだ。言い方を工夫するとか、言い方を考えるのは好きなことだった。だから頑張れる。苦じゃない。

 

そういうことを頑張ろうと思ったことに追加して、怒りを出したりするのも、大事だなと思った。思いっきり感情を出すのだって、ときには必要なんだ。人間として。私の場合、それをコントロールすることを忘れて、思い通りにならないと怒鳴るみたいなところまでいきそうになってて、それは危なかった。でも、表現のひとつとして、ドカンとやるのも、ときには必要なんだ。それは私が出来るようになって良かったことだ。

 

書いていて、恥ずかしいと思ったり、生徒にごめんねと思ったりしている。私、自分勝手になっちゃってて、ごめんね。あなたたちのためになると思って、怒鳴っててごめんね。って。いや、もちろんあなたたちにも悪いところはあるんだけどさ。(笑)

 

一年半で、そういう苦手な部分も鍛えられたから、この一年半で完全に無駄な努力をしちゃったとは思わなくて良いんだと思った。あのままの私だと、騙されたり、なよなよのまんまで利用されたりして、なんにも感じない都合良い人形みたいな扱いになっちゃっていたと思う。底辺校の生徒たちに転がされて、悲しくて悔しくてずっと泣いているような人生になってたかも。周りを、嫌いだ嫌いだと憎みながら。先生としても人間としても、それは駄目だ。

 

生徒たち全員、好きだと思っている。それは、私が学校生活を楽しめているからだ。底辺校での教師、という仕事を楽しめるようになったからだ。言うことを聞かせなきゃ、と肩肘をはっていた私は好きじゃなかった。頑張って、一生懸命やって、でもたっくさんのストレスを感じて過ごしていた私は痛々しい。

 

無理矢理ポジティブに考えているのではなく、普通にここで働くことをおもしろいと思えるので、本当に良かったな。

 

もっと魅力的な私になろう。生徒に魅せよう。ねえ、一緒に学生生活を楽しもうね。