まただ

 

先週も母と言い合いになったし、今日もまた言われてばっかりになっちゃって、でもそんなに私に当たることかな?と思ってしまう。

 

お母さんだって家事嫌いじゃん、と思う。私も家事を好きじゃないけど、それは母に似たのかもと思う。でも母はかなりきっちりやるし、すごいなと思う。丁寧だし、ちゃんとやる。

 

もっと手を抜いてくれれば良いのに。

 

みんないつか死ぬのに私は何やってんだろ。わざわざ研究発表の準備やらなんやらしたり、合わない家族と一緒に暮らしたり、して。

 

私はここから抜け出したいと思ってる。でも、思ってるだけでいつのまにかぬるぬるとここに戻ってきて、それからまた嫌なことがあって、早く出ていきたいと願って、繰り返してる。

一緒に暮らすってめんどくさい。幸せな家族ってなんなんだろ?私が作れるなんて思えなくて。

 

私が唯一、1年間なにも喧嘩せずに一緒に暮らせたのは弟だけ。でも弟と一緒に暮らせるってことは、その他の人とも一緒に暮らせるんじゃないかなと思った。私が、母や父と合わないだけなんじゃないかな。そういうことはある。合うところも似てるところもあるけど、合わないところもたくさんある。

 

私が、私オリジナルの家族を作っていけたら良いな。

 

母の理想の家族は作れなかったけども。私は家族に期待しないでやっていこう。絶対。

 

今まで、自分の名字がお気に入りだったけど、血や遺伝子としてはもはや気にくわないし、名字が変わることについては全くこだわりが消えた。今日。なんか私、いつかこの世から消えちゃうのに何やってんだろ。理不尽な、嫌な思いをするだけもったいないのではないだろうか。

 

母はとっても美人なのに幸せにみえないことがあって、私は美人じゃないけど幸せなことが多い。

 

 

だめだ

 

私は絶対、父親とバージンロードを歩きたくなんかないし、お金がたくさんあれば母親と父親は離婚できるのにと思うし、それぞれでちゃんと生きていってくれたら良いのにと思う。

 

父親に、障害っぽさなんて無ければ良かったのにと思う。

 

母親が、もっと頑張らないでいてくれれば良いのにと思う。

 

でも、ここに生まれちゃったから頑張るしかない。そうでしょ?

 

 

 

母と喧嘩した記録のブログになっちゃう

 

母親が「お金ってあってもなくても喧嘩の種になるんだって。あったとしても喧嘩になるし、なかったとしても喧嘩になるし。あっても不幸せな人はいるし、なくても幸せな人はいるんだって。不思議だね」なんて言うから、ケラケラ笑ってしまった。

 

 

そしたらすんごい、母親のはらわたが煮えくりかえってしまったみたい。馬鹿にしないでよ、と思ったらしい。実際、馬鹿にしないでよ、と怒鳴られた。笑うところがおかしいと言われた。そうかもしれない。

 

 

たしかに私は、『なぁにそれ。「不思議だね」って、なに言っちゃってんの』と思った。そんなこと信じてる母親がかわいく見えた。でも、本当に、なぁにそれ、と思ってしまっただけで、別に馬鹿にしてるつもりじゃなかった。単純に、なに言ってるんだろ、という感じだった。なんか大真面目に根拠もないことを、スピリチュアルなことを、言われているような感覚だった。なに?急に、と思った。

 

 

まあ、私は今、お金のことを気にしなくてすむ立場だから、そんな感じなのかもしれない。

 

 

お金に飢えていた昨年だったら、言葉が染みたかもしれない。

 

 

でも、お金はあってもなくても喧嘩になる……なんて、まあ、言わんとしてることは分かるけど、にわかには信じがたいことだった。だって私は、お金があれば防げる喧嘩を多く見てきたから。そしてお金の必要性を身にしみて感じていた。父親と母親がお金のことで喧嘩してるの、本当〜〜〜に嫌だった。今だってやってるじゃん。あれって、お金があればしてない喧嘩なんじゃないの。……と思ったけど、うちの父親と母親って別にお金のことがなくても喧嘩してるだろうな。でも、お金があればしないですんだ喧嘩もたくさんある。それは絶対にそう。

 

 

だから私は絶対に専業主婦にはならず働き続けるし、お金は大事だと思っているし、ついでに、子どもに自分が疲れるほど投資したり期待したりしたくないし、家よりマンションを買いたいと思っている。まあ、家を買うのは、まあ、別に良いけど。買っても。

 

 

なんか、家を出たいなぁと思う。それは結婚したいと思う気持ちに繋がる。

 

 

なんかさぁ、聞いたところによると、喧嘩しない家庭もあるらしいね。私はそういう家庭に育ってない。私は喧嘩しない家庭を築けるのかな。私はめちゃくちゃ辛かった、母親と父親が喧嘩してるの。母親に怒られるのも父親に怒鳴られるのも辛かった。私は子どもを生むかどうか分からない。自分の家族みたいな家族を作りたいなんてもう思えないし、自分の遺伝子にも不安要素があるから。

 

 

 

だぁ

 

母親からの言葉に死にそうになる。

というか、母親からの言葉に攻撃されながら、私自身も加虐的な気持ちになって、インコをにぎりつぶしたり、メダカをトイレや排水溝に流したりする映像がよぎって、恐ろしくて身震いした。

 

母親からの言葉で、子どもを生むという選択肢がどんどん見えなくなる。私は私の遺伝子を残したいと思えない。そういう意味では、母親からの言葉で死んでいく。永遠に何か続いていくということが生きるということで、それが途切れるということが死ぬということなら、私は死ぬ決断をどんどん強くしている。このことについては弟とも話し合ったことがあるけれど、弟は、そういう考えると暗くなることは考えないと言った。私は、弟なら遺伝子残すかもなと思う。男性優位な日本、遺伝子的にも男性の精子のほうが女性の卵子より保ちやすい、そう思うと弟は多少結婚が遅れたとしても子孫を残す可能性が高い気がする。

 

どうして私(母)を手伝えないんだ、私(母)ばっかり苦労して、お前が家事が嫌いなのはなぜだ。幼なじみの子どもが羨ましい。もらったプレゼントに文句を言ってなにが悪い。

 

と母は言う。私は家事が嫌いだし、手伝う気持ちになかなかなれないし、母親の苦労に気付かないときがあるし、言われないと気付かないことがあるし、母親がどっちを望んでいるのか分からないときがある、母親が望むようなプレゼントを用意できないことが多い。それを障害だと言われて、たとえ世の中でどんなにうまくやれて友達が多くて仕事をしていても家族、母親、父親とうまくやれないなら、優しさがないし思いやりがないし、どんなに頭がよくても良い大学に行っても意味がないなどと言うなら、障害だと思うなら、もう…………無理だな。

 

 

と、思っていたが、むしろ母親は、そこまで、やらなくて良いのでは?爆発するくらいなら家事をやらないでほしい。なにもそこまで家族のためにやらないでほしい。理想を私に押し付けているのでは?そして、プレゼントに文句を言うのは非常識だし私が落ち込んだって良いだろう。私とあなただって似てるだろ。

 

 

私、そんなに駄目かな?そうでもないと思う。

 

 

もしかして私、あなたと合わないだけなのでは?

 

 

死んだあとの世界がないということ

 

こうやって文字にすると苦しいような感覚を覚えるのだけれど、死んだあとの世界がない、そういう可能性がある、ということを、もう2年くらいかけてやっと理解しようとしている。

 

 

スピリチュアルな世界だとか、宗教の世界だとか、霊体験や非日常的な体験、そういうものを信じたい気持ちはある。子どもは親を選んでくるとか、物事には全て意味があるとか、そういったことも含めて。こういうことってもしかしたら、もっと細分化されていくもので、死んだあとの世界なんかとは関係ないのかもしれないけれど、でも、私の中では一緒。一緒に考えて、少しずつ納得していくことなんだ。疑ったり、分からないなぁと思ったりしながらずっと考えていくことなんだ。

 

 

〜だと良いなぁだけでは、思考は終わらない。

 

 

こういうことを考えるようになったのは、身近に思える死がきっかけで、そこから派生して考えるようになったことがたくさんある。

 

 

分からないけれど、安易に「こうです。こういうことです、これが真実です」なんて信じて考えることをやめるよりも、考え続けていたほうがいつかそのときが来たときに気持ちが楽だと思う。どうか、その頃までには、今よりも死ぬことが怖くありませんように。穏やかに、意識が無くなることがとんでもなく怖くて恐ろしくて泣いてしまうような形ではなくて、ふんわりと眠れますように。そして、願わくば、私がいなくなった世界を見れますように。そう思っている。

 

 

「私」が終わることは救いだ、と思うし、「私」が始まったことは奇跡だ、と思う。私の命になんてなんの意味もなくて、精子卵子が結合して生まれてそこに当たり前に意識があるんだ、そう、繁殖という本能で子どもを生みたくなって、ただそれは動物としてそうやって、それでたまたま私が生まれた。そんな私は動物の中でも人間として意識を持てたことが幸せだ、人間が良かった、人間で良かった。せっかく生きてるのだから頑張っていろいろやってみよう、興味あることをやってみよう、You Only Live Once……本当に?そうなの?そんな、死んだら終わりだなんて?ぐるぐる思考がまわる。

 

 

いま、起きてしまったこと、を見つめることは時に辛いし人によっては本当に言葉で表現できないくらいの嫌なことだったりする。例えば虐待に意味を持たせるとか悲惨な事件の原因とか、良いことに、どうにか納得できることに繋げなきゃ生きていけない人もいるだろう。でも、そんな、そんな、どんな理由があろうとも苦しいものは苦しく、あってはならないことはあってはならず、考えあぐねたって理由なく理不尽な怒りに巻き込まれたり意味なく殺されたり、そういうこともあるのだと思う。信じられないくらい、意味がないこともある。どうか意味があってほしいくらい辛いことに、なんの意味もない。そういうことばかりなのだろう。

 

 

その一方で、例えば苦しくて泣き叫ぶしかない、そういう人の救いになるのなら、その人が信じて楽になるような世界を話すのも必要なことなんだろうなと思う。その場合はその人のために……その世界を話すことは…その人の苦しさを請け負うことになるのだろうか。その話がその人たちの世界の真実なら、その言葉の責任を負うことは辛くもなんともないんだろうか。

 

 

 

私は、魂なんていうものがあると良いな、来世があると良いな、いろんな世界があると良いな、辛いことにも回収できるような意味があれば救われるな、と思ってる。でも、それだけじゃ考えは終わらない。

 

 

 

 

私がいつかなくなるときに、私は何を思うのだろうか。