なんとなくやること、なんとなくやめること

 

なんとなく、値段やカロリーをみて注文するものを変えることがある。

デザートを頼むのが好きだ。コーヒーゼリーなんて自ら頼むことは無かったのに、最近頼むことがある。カロリーがそこまで高くなくて、安いから。

 

無印カフェには「ガトーショコラとベリーのパフェ」に惹かれて入ったのに、実際に注文したのはコーヒーゼリーパフェだった。値段は半額だしカロリーも低いと予想する。おいしいから良いのだけど、こういう選択をやめたいと思う。

 

これにはルールがあるわけではなくて、なんとなく、迷ったときにカロリーが低いものを選んだり値段が低いほうを選んだりしているだけだ。そしてこれは悪いことではないと思う。

 

なんとなく選ぶときに、健康に良いほうを選ぶのはとても良いと思っている。だけど、今回私がコーヒーゼリーパフェを選んだのはそういうポジティブな理由では無かった。お財布の事情や最近の体型事情から、どちらかというとネガティブな理由でこれを選んでいる。おいしかったし、健康に良いのもコーヒーゼリーのほうなのかもしれないけれど、そういうことじゃなくて、選ぶ過程をポジティブにしたいのだ。

 

そして、食べたいものを食べたいままに選ぶために、私は運動をしたいし、お金を稼ぎたい。だから4月からはジムに行ったりお金を貯めたりしたい。

 

 

 

 

子どもをうむ

 

漠然と家族を作ることに憧れはある、でも疑いなく家族を作ろうとしていた私はすでにいなくて、考え始めると全く意味が分からず恐ろしさすら感じる。

 

子どもをつくるって、なにそれ。なんで?

 

まず、いろいろ書いていきたいのだけれども、子どもをうむのって痛い。帝王切開も無痛分娩もあるけど、結局痛いじゃん。それは分かりきってるじゃん、こわい。

 

 

 

自分のこと以外のこと、子供の人生を背負うという責任の重さも。気になるしこわい。

 

 

子どもが大学院行きたいって思ったときに行かせてあげられるくらい稼げるかな?とか、人生って大変なこともたくさんあるけど大丈夫かな?とか。思ったら止まらない。

 

 

顔、学力、運動能力、その他もろもろ、そういう生きていく上で有利に働く偏差値をできるかぎりあげてあげたいとか。生きやすい環境を整えてあげたいとか。そういうことを思う。生まれてくる子の障害の有無も考える。どんな子が生まれるんだろう。私の嫌なところが似てないと良いな。

 

 

子どもうんだら、たくさんのことが心配だし、大変だし、どういうこと?これは。お金も時間もかかるよ。もはや、どうしてみんな子どもをうむの?

 

 

なにも考えてない人や、全部が潤沢な人しかうめないのでは?

 

 

その一方で、1人うむなら3人くらいはうんで育てたいな、双子や三つ子で一気に育てるのも良いな、とか。養子を育てても良いし、とか。そういうことも考える。

 

 

子どもをうむ。子どもが欲しい。でも、なんでその子どもって基本的にはみんな自分の子どもが良いんだろうね?やっぱり自分の遺伝子を残したいから?

 

 

おじいちゃんが亡くなったとき、ああ、私がおじいちゃんを継いでいるのか、おじいちゃんが無くなるのはもったいない、思いや考え方、つまり遺伝子を遺していきたいなとは思ったことがある。

 

 

ねえ、みんなもそういう感じ?

 

 

なくなっちゃうの、もったいないなと思う。私に関わる好きな人のかけら、思い、良さ、遺伝子、血肉、魂のような諸々。最近お友達のみんなが子孫を残してってるのも、そんな感じの気持ちからですか?

 

 

4月からの毎日

 

こんな自分になりたいということを考えている。こういうことをしたいとか。

このブログでもなんだかんだといろいろ書いてきたけれども、地元にかえる、公務員になると思ってきてて、それを実現できたのかと思うと感慨深い。それ以外にもいろいろ思ってたけども。

 

・似合う髪型、メイク、服装を探す

・料理をする

・体に良いものを選ぶ

・旅行に行く(大阪、シンガポール、沖縄)

・お金を返す 貯める(両親、奨学金

・結婚相手を探す(家族を大切にする人、子どもを育てる財力がある人)

・運動する

・読書

・断捨離

・学会発表する

・定期的に東京にいく

・ピエロにならない

・声をひくく話す

 

兎にも角にも、お金に困らない生活からお金を考える生活を過ごしたので、お金を稼ぐことができるってことが嬉しくて、早く働きたいなという気持ちもある。

カードの引き落としや交通費を考える生活、衣服やコスメを節約する生活、買おうか買うまいか迷う生活とおさらばできる可能性。楽しみである。

とは言え、この自由な生活もあと少しなので堪能したい。学部四年のときのように、先輩方に言われるがままに、悔いの残らないよう予定をぱんぱんにしたり留学したりして心の準備、体力の準備ができなかったころの私とは違うのだ。

しっかりのんびりする。

 

修了式や謝恩会が楽しみなのだけれども、コロナの影響で中止になる可能性もあり、不安である。せっかくなのでやりたいな。

 

 

 

 

 

夏ごろの夢

 

お笑い芸人さんのひとりにはまって、ライブを観に行ったらたまらなくなって私もM-1に出たいやらキラキラしたあの光を浴びたいやら、あっち側に行きたいやら思ってしまうようになった。 

 

芸人をやってみる夢は、新宿の地下劇場を観に行って挫けた。全然おもしろくない人たちがなんかやってて、私はここからスタートするのか、それはちょっと嫌だなと思った。だったらもうちょっと設備が整っている、M-1の予選とかそういうのに出るだけで良いや。趣味で。と思った。でも、やるなら絶対相方にしたい相手にいくら懇願してもやってくれないと言ったので、諦めきれないけれど、諦めることにした。

 

 

そしたら、他に何か無いかな。芸人さんに認知されるような何か。あの人と挨拶を交わせるような、あっち側になれる何か。

 

 

そこで、そういう関連の求人をちょくちょく見るようになって、下心だけでどうにか「あっち側」に滑り込むことができた。

 

芸人さんのために、マイクのテストやらマイク渡しやら映像や広告作りやらする仕事だ。芸人さんは私を認知するとまでは言わないけれど、そばにいる。話すこともある。芸人さんが挨拶してくれる、話ができる、近くにいる。そういう楽しいだけの仕事だった。私じゃなくても良い仕事、いつでもやめられるような気楽な仕事。ピンマイクやハンドマイク、サンパチ、いろいろな用語を覚えた。イラレ、トライキャスト、使えるようになった。芸人さんの個人名をたくさん覚えた。

 

もうやめちゃったけど。

 

で、とうとう念願のあの人には会えなかった。あの人と仕事してる芸人さんとはたくさん会えたけど、あの人にはすれ違いもしなかった、惜しくも。いつもいつも、惜しいところで会えなかった。

 

 

以上、下心だけで続けたバイトの話。

 

痴漢とはなにか

 

最近、「痴漢とはなにか 被害と冤罪をめぐる社会学」という本を読んでいる。

読んでいると言っても、まだほんと、序章くらいしか読んでいない。読むのが辛い。イライラしたり悲しくなったり、感情が安定しないままに読む感じで。

 

生徒たちから、ふとした話の流れで「先生は痴漢にあったことがありますか」と二回ほど聞かれたことがある。いずれも三年生、ある程度関係ができている子たちから。男女3〜4名で男子の割合が多い状態で。

 

こういうのって、「ない」ことを前提に聞かれていたり、相手(この場合は私)を茶化す目的だったりするので、解答が難しいなと感じた。こういう質問をしない配慮ができるような人間になってほしいなぁと思いながら解答した。この思いがちゃんと伝わったかどうか分からないけれど、とにかく私は解答している。

 

最初に聞かれたときは、なんと答えれば良いのか分からず、黙ってしまった。すると男子生徒は困ったように「黙らないでくださいよ、え、あるんですか」と言った。「ある、あるけど、みんなが無いなら良かった。こういうの、今の雰囲気で分かったと思うけど、デリケートな質問だから今後控えるようにね」と伝えた。

 

2回目のときは、「そういう質問は相手を傷つけることもある」と、まず返した。話を聞きたがる無邪気な男子生徒、性的な関心で内容を聞きたがっていることは分かっていたので、「じゃあ今後そういう質問を他の人にしないために、体験を話すよ」と話した。思い出すことすら辛い、嫌な経験であることを伝え、重いトーンで経験を語ると、その生徒はニヤニヤしていた顔をこちらに向けなくなり、俯いて聞いていた。そして、話終わると取り繕うように「へえー、それは嫌だな」とこちらを向いた。「気を付けてね」と他の女子生徒に声をかけ、「大変でしたね」「警察には言ったんですか」と私に返した。

 

こういうやりとりが教育的に正しかったのかどうか。彼らはもう忘れているかもしれないけれど、私は覚えている。どういう返しが正解だったのか分からないなと思う。

 

私は電車内で痴漢にあったことがある。思い出せるのは2回だけれど、その2回も、気付くのに時間がかかったので、気付かないようなものもあるんだろうなと思ったことを覚えている。

1回目は、スカートをはいたおしりの上からずっと、おそらく、性器を押し付けられていた。混み合った山手線の中で、なにが当たっているのかという違和感はあったが、特に気にしていなかった。しばらくして、どんなに場所や角度を移動してもその違和感がついてくることに気付いて、ひっついてくるそれに気付き、痴漢だ、と思った。

2回目は、職場に向かう電車の中で。手の甲をずっと私の股間に置いてくる男性がいた。うつらうつらしていたので気付かなかったが、大きく揺れると押し付けてくる、その違和感。人を挟んでもずっとついてくる手の甲に気付き、あ、痴漢されてると思った。思ってもうまく巻けず、その人は電車を降りていった。

どちらも気付いてから、強烈な不快感、怒り、イライラに襲われて、しばらくモヤモヤすることになった。こういうの、どうやれば捕まえられるんだろうか。

 

身近な人からの「痴漢」だってある。痴漢と言えるような行動をされたことがある。正直、これを痴漢としたら、私はものすごい数の被害に遭っていることになるので認めたくない。でも、認めないと先に進めない。次からはこういうことをされたら逃げる。そう思っている。痴漢というには違和感がある。セクハラか。あれは。

 

例えば、上司が私の膝の上にまたがるとか、エレベーター内で2人っきりになると絶対よりかかられるとか、机の上に押し倒されるとか、そういうのってセクハラじゃないですか?冗談だとしても。ある程度関係ができていて、私が笑っていたとしても、これはセクハラになりませんか。次から、そういうことをされたら、私は逃げます。ヘラヘラしちゃうのは私の悪い癖だけれど、これからはそれを痴漢だと、セクハラだと認識して逃げようと思います。

 

生徒たちがセクハラ、痴漢の被害に遭いませんように。そして、当然のことながら、それをする側にも、被害にあった人を責めるような人にも、なりませんように。もう先生じゃない私は、ただ祈ります。

 

 

弟と暮らしてる

 

アパートを借りて、二人暮らししてる。

友人に写真を見せると驚かれるくらいの素敵なアパートだ。ヨーロッパをイメージされたアパートで、そこらへん一帯の地主さんが、ヨーロッパを旅行したときのイメージを持ち帰って作った素晴らしい「村」だ。お家賃はそこそこ、二人で割ったらまあまあ安いと感じられるようなところだ。アパートっぽい音漏れはあるし、コンビニや駅が遠いけれど、景色も外観も治安も良いので気に入っている。

 

弟と一緒に住み始めて、なんの苦労も不満もないというのは驚きだった。弟なのだから当たり前だろう、と言われたらそうかもしれないけれど、私は家族である父親や母親としばらく一緒にいると喧嘩してしまうので、弟と一緒に暮らして喧嘩になってしまったらどうしよう、と心配していた。

 

だけれども、そんなことなく、ここまで来れた。もうすぐ引っ越しで、3月から私たちはまた離れ離れで暮らす。私は実家に戻り、弟は寮に暮らす予定だ。寮の抽選に落ちたら弟も実家に戻るらしいけれど、そうならないような予感である。4人で暮らせたら良いなと思うけども。

 

どうしてうまくいったんだろうか、私たちの暮らしは。家族だからという理由以外で考えてみることにする。だって家族だとしても、私と父、私と母、だったら無理だったと思うので。こういう暮らしは。

 

まず、二人とも働いていないことは大きいと思う。学生は、遊んでるわけじゃないけど、基本的には自分のこと、研究にしても自分の関心のあることをやるのでストレスは社会人よりもだいぶ小さいはずだ。社会人ってやつは、社会を作る仕事をする関係で、「私」より「社会」を優先しなければならないことがあり、それがストレスになることがあると思う。私の場合、ストレスがあると、相手は悪くないのに自分の虫の居所が悪くて不満をぶつけてしまうことがある。そして、そういうことって割とあるらしい。

 

次に、干渉し合わないことである。仕事を辞めた直後、最初のほうは、私の職業病がなかなか改善されずに「大丈夫?」「起きなよ」などと弟にストレスを与える言動をしてしまっていたが、それが徐々に減っていった。ご飯も自然とほとんど別々になったし、わたしも弟もマイペースに家事をし、たまにゴミ出しやら目覚まし(「朝、起きたら声かけてくれ。」とか)を依頼し合う程度である。それが居心地の良さに繋がっている。それぞれに苦でない家事があり、私の場合は洗濯や料理、弟の場合は皿洗いやお風呂掃除で、ほとんどそれはお互いに任せている。

 

さらに、上記に関わることだが、お礼を言うことである。弟はこれがかなりちゃんとしていて、言われると嬉しいし、やってあげて良かったなという気分になる。私も割とちゃんと言うほうなので、良好な関係性に一役買っていると思う。

 

最後に、無理をしないことである。これも先述した内容と被るが、例えば洗濯。私もなかなか出来ない期間、弟は洗濯を基本的にやらないので、洗濯物がかなり溜まることになる。私の旅行帰り、たくさんの洗濯物に洗面所が埋まっていたときは、疲れもあってイライラしたが(「こうなること見越して洗濯くらいやっといてよ」という気持ちで)、自分の洗濯物を優先して洗濯することにして、無理せずやってみたら、全然イライラすることでなかったことに気付いた。弟が気まぐれに洗濯物を回して、そのあと干すのを忘れて生乾きの服が洗濯機の中に入れっぱなし……ということがあっても、そういうときはそれらをいったん取り出して自分が洗いたい服を先に洗う。そのあと、余力があったら弟のものを洗ってあげる。そういうことにしたら、すごく気持ちが楽だった。こうしなきゃ!という気持ちが無くなったので、楽で、無理をしないことは良いことだ。

 

これから実家に帰っても、こうやって、弟と過ごしたような日々を家族で過ごせたら良いなと思う。私が仕事を始めるし、一緒に暮らす相手は父と母になるし、なにより東京じゃないことに不安はあるけれども。マイペースに頑張ります。

 

 

 

 

貧困状態だと物を捨てられないのだ

 

もうすぐ引越しだ。モノを捨てなければ。そう思いつつはや数ヶ月。これが結構難しい。欲しいなとか足りないなとか、そういうことになったときにすぐ買える状態じゃないので、「でも…必要になるかも」みたいな感じで躊躇してしまうのだ。今まで使ってなかっただろ?でも捨てらんない。

 

必要になったら買えば良いじゃん、って思うでしょ?それがなかなかね。なかなか買えない状態なんだもん。お金ないから。

 

現に、欲しいと思ったメイク用品や服や新しい下着なんかは贅沢品として結局かなり我慢している。だから古くなった下着はまだ着ているし、洋服もトキメキなんてないものも何も考えずに着てる。パッケージが汚れたようなメイク用品で代わり映えのないメイクしてる。

 

ちょっとだけと思って先月美容院で2年ぶりくらいにパーマかけてそれをカードで支払ったら、カード引き落としの日に引き落とせなくなっちゃったみたいで、カード止まってた。まあこれ以外にも諸々が重なってカード、引き落とせない額になったんだろーけど、わたしパーマ以外になんか贅沢したっけ?

 

なんもしてない。むしろずっと、我慢してるのに。

 

もしかしてコンビニのお菓子?あるいはサイゼリヤで飲んだこと?もしくは友達にあわせた、高いところでのご飯?

 

チリ積もってやつ?

 

でも、カバンも服も2年くらい買ってないんだよ。就活のときのスーツだって、学部生のときのを着てたんだよわたし。擦り切れるまで着てる。しかも、まだしばらく着るつもり。

 

こんな感じなのに、大学院のお金は全額払ってる。110万くらい、自腹。免除申請が全く通らなかったものですから。ああ、このぶんのお金があればどんだけ楽だったかと思う。思ってしまう。考えてもしょうがないことだけど。どんだけ大学院生貧乏なの?わたしより貧乏な人がたくさん通ってるって?

 

ああ、強くなりたい。ここで言う強くなるっていうのは、お金を稼ぐってことです。

 

実は本当に今日はお金がないことで嫌な思いしたので(知人からお金関連で嫌なこと言われた)、「日払い バイト」で検索したら、ナイトワークってかわいい言葉に紛れて、チャットレディやら風俗やらキャバやら諸々出てきた。ほら。わたしはそういう世界を研究してるから知ってるよ。こうやって簡単に搾取される道が現れるんだ。そうやって搾取される道に行くと、どんどんお金に見合わないようなものを要求されてくんでしょ?ごまかされながら、ゆっくりじわじわ不幸に浸食されてく。知ってる。

 

でも正直、チャットレディの仕事は説明をじっくり読んでしまった。だって、お金ないんだもん。ねえ、誰にもバレないんだって。日払いで、給料を手渡しできるって。アダルトでもノンアダルトでも良いって。顔見せなくても良いんだって。わたしに都合の良い言葉ばっかり書いてある。かわいい顔文字付きで。明るい雰囲気、マイナンバーカードも不要だって。そしたら本当にバレなさそう。

 

ねえ、もしかして、テキトーに何時間か働いて、直接何回か日払いでお金もらって、そのあとは身分証明書を返してもらって、サクッと縁を切れば全然大丈夫そうじゃない?

 

ほんと?ほんとに?やろうかな?だって……こんな簡単にお金が手に入るんだもん。

 

結局やらないことにしたけど、わたしに親も兄弟もいなかったらやってたと思う。

 

わたしは運が良いってことを改めて自覚する。学歴社会の中で生まれて、勉強が得意で、親がいて、親は自分たちや兄弟を養うくらいのお金を稼いでいて、兄弟もしっかりしてて、そう思うとかなり恵まれてる。

 

でも、でも、お金がないの。

 

お金に関する不安が常にあるの。

 

話が逸れてしまったけど、今日書きたかったことは捨てられないってこと。これはお金がないせいだ、そういう話なんですけど。

まあ思い切って捨てるしかないですよね、やります。