連絡を待ってしまう

 

熱があるのですが、今日連絡をしてくれませんか。あなたからの連絡を待っているんです。

 

いつのまにか、良い人だな、と思う気持ちから好きだな、と思う気持ちに変わっていた。でも相手は私に好きだと言ってくれてはいないので、どういう気持ちで付き合ってくれませんかと言ってくれたのかは分からない。どうなんだろーなァ。でも一緒にいて楽しいので、と言われたから。それで良しとしようかな。

 

いつのまにか、脳内で会話する相手が変わってる。(あの人からこの人へと変わったのだけれど、ということは私はあの人のことやっぱり一時期好きだったのかな?とも思う)

好きだし、大事にしよう。お仕事大変だろうから、適度な距離を保とう。そんな感じで良いのかなぁ。

 

 

だらだらと電話するのが大好きだけれど

 

 

 

相手の時間も奪うことになるので、そういうことはなるべく控えている。すっごくひまな人、もしくは私のことが好きな人じゃないと付き合わせちゃダメだよね。

 

昨年はすっごくひまな人(地方住み)と毎週日曜日に電話していた。今年は元カレ(ニート)や大学院の友人や学部時代からの友人と電話している。分散してるので良い感じ。……って、そんな言い訳している自分を嫌だなと思う。

 

 

だらだら電話する相手は選ばなければならない。私はもう、メンヘラ化はしないと思うけれど。

 

 

読み返したときに思いだせるように

今週のお題「わたしの手帳術」

 

読み返したときにその日を思いだせるよーな手帳を心がけている。そうは言っても、予定を書き込んで変更があったら修正テープで消して書き直しているだけなのだけれど。日記ほど細かくは書いていないし。でも、一緒に飲んだメンバーとかどこで何時から飲んだとか、そういうことはちゃんと書いておく。そうしないといつか忘れてしまうので。

 

日付がない、メモの箇所には月ごとの占いに書いてあった言葉(しいたけ占いとか。石井ゆかりさんのとか。VOGUEのとか。)やらそのときの気持ちやら、雑多に書き込んでいる。読み返すとおもしろい。自分が選んだ言葉や紡いだ言葉がおもしろいなんて、なんという自己満足のかたまり…とも思うけれど、でも良いじゃないか、自給自足している感じが。

 

普段は忘れているけれど、読み返したときには思いだせるように、予定や気持ちや名言を書き込む。そうやって思いを込めるから、手帳は言わずもがな、もう何年分もとっておいている。

 

 

すでに私の前で2人泣いている

 

 

前期試験前、焦りながら学ぶ生徒に青春を感じる。

 

 

ひたすら教える。自分の教科はもちろん、なんと自分の教科以外も教える。そうしてやらないと間に合わないくらいうちの生徒たちはやばい。このやばいっていうのは、「プーと大人になった僕」でクリストファー・ロビンがプーに「プーのおばかさん」って言うみたいに愛のある表現として。……いや、それは盛ったかもしれないけれど。

 

 

数学が分からなくて泣いたり、英語が分からなくて泣いたり、今年は男女関係なく、分からなくて泣く。彼らの幼さ、純粋さ、無粋さ、に驚く。「やだよ〜」「こわいよ〜」とテストを恐れる子どもたち。どれだけやっても今までできたことが本番で出来なくなることがあること、自分が凡ミス(凡ミスという言葉で逃げるのは良くないとずっと思っていたけれど、彼らのミスはそういう風にしか表現できないので敢えて表現する)すること…を勉強することで理解してこわがっている子どもたちを見て、「私もこわいよ」と返す。こわい。

 

 

私の予想問題はあたるから、と言って自作(試験作成者である私)の予想問題をひたすらに解かせ、採点のときには丁寧に直してあげる。生徒たちってば、自分で採点すると間違えるから。自分たちで予習も復習もしたことない子たちだから、試験対策なんてもってのほからしく、必死でよく分からないままに、でも与えられたものを素直にやろうとする姿は美しいときがある。

 

 

「えっ?!違うの?!くそー、まじかよ」「ふざけんなよ。だりー」「おいー、まじか」

 

 

態度悪くて注意せざるを得ないときもあるけれど、基本的にはその必死さや頑張りを応援したいし、報われてほしい、努力の大切さを知ってほしい。だって、みんな初めてこんなに必死になってる、らしい。中学時代は勉強してこなかった子たち。めまいがしそうだけれど、めまいしている暇がないのでガンガンやる。やるしかない、泣いてもなんでも。

 

 

そういう一生懸命が充満している教室に、青春を感じることがある。私はそれを見つめてる。

 

 

お姫さまとしてすくすく育った

今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」

 

私のおばあちゃんもおじいちゃんも、まったく、本当に、私のことが大好きだ。やれやれ。

 

私のことをお姫さまだと思って、それくらい大事にしてくれている。私の健康と幸せを祈ってくれている。そういうおばあちゃんやおじいちゃんの気持ちを知って、泣きそうになることがある。私のために祈ってくれる人がいるってことが、私を強くしたり弱くしたり、幸せにしたりする。

 

おじいちゃん、おばあちゃんがこれからも幸せに長生きしますように。

 

 

ひとりエッチじゃ足りなくて、あーシたいなと思う

 

 

こういう日が来るとは思っていなかったけれど、意外とやってきた。性欲が理性に勝っているのか、生存本能的なものなのか(いよいよ妊娠したくなってきたのか)。

 

ずっとずっと自分の体型や毛や匂いを相手に知られるのが嫌で、シたくない気持ちのほーが大きかったけれど、21歳頃から薄れてきていて、今はほら、なんと、誰かとシたいって思うよーになってる。

 

誰でも良いわけじゃないんたけどね。でも、シたい。この気持ちが私の中でくすぶってる。

 

みんな、こういう気持ちを持って、ワンチャンとかしてたんだろーなー。いいなぁー。私はなんにしても遅くって、やっとそういう気持ちになれたっていうのに、もうみんなは先に進んでる、そんな遊びできなくなってる。

 

結局私は遊ばないまま、結婚するんだろーな。

眠りにつく直前、結婚式の妄想で幸せで涙流すほどには純粋なもので。

 

 

私の生徒が死んだ

 

 

「どうだった?通夜と告別式は?」

「当たり前のことだけれど、太陽君はどこにもいなかったよ。もういないんだなぁってことが分かった」

 

 

目の前で行われるお焼香を食い入るように見つめて、失敗しないようにお別れしようと思っていた。何度も脳内で練習して、いざ順番が回ってきたら、なんにも練習が役にたたなかった。

 


太陽君は死んでいた。

 


泣いちゃだめ、泣いても良い?、お辞儀をしなきゃ、泣くの?、太陽君、太陽君、太陽君、、、太陽君

 


最後のほうは名前だけ、ずっと名前だけ連呼していた。長かった。短かった。もう終わってしまった。

 


太陽君にとって世界はどのようなものだったのか。良いものだったときが少しでもあっただろうか。死んじゃったあとに何をしてあげても、部活のジャージを飾ってあげても、着せてあげても、お気に入りのものを置いてあげたって、買ってあげたって、お花を飾ったって、なにしたって、もう太陽君は死んでいる。なんの意味もないように見えた。なにを今更。もう、取り返しがつかないことだよ。死んだあとに何をしたって。

 


このとき、私は本当に、本当に、取り返しがつかないという言葉の意味を知ったと思う。

 


最後にもう一度会えるような感覚で、お通夜にいこうとしていたことに気付く。実際は(当たり前だけれど)最後に会えるわけじゃなくて、ジャージやお花が虚しく置かれているだけだった。控えめに照れたように笑っている太陽君の写真を見たら、あれ、あなたはどうして死んでしまったんだろう、あなたにとって世界は生きづらいままだったかもしれないね、と思ってしまって悲しみが目から口から溢れた。

 


彼にとって、やりたいことをやったら、怒られる世界だった。たまたま、16年間の中で彼の中のやりたいことが悪いことに直結するとき、しかもその欲求に行動していた時期があって、いま、まさにそのときに死んでしまったように思えている。そんな時期に死んでしまったように見える。でも、その一方で、頑張っていた瞬間も、好きなものに対して努力していた瞬間も私たちは見ているから、いたたまれない。

 


あなたたちがころしたの?だれのせいでしんだの?

 


これから先、私は密かに思ってしまうと思う。これから先、指導方法について、私の指導について彼らからなにを言われたとしても、でも、そんなあなたたちの指導の中で、彼は死んだんだよ、と思うと思う。

 


いくら、本人の意思やご家庭の意思を尊重していたって、いくら、本人が大丈夫ですと言ったって、やると言ったからって、それで本人や家庭に責任があるというように見せたって、だめなんだよ。

 


本人が断れるような環境だったのか。

本人が何かを断れるような関係だったのか。

休憩は十分だったか、休ませてほしいと言ったときに疑わなかったか、そのときの口調はどうだったか。

 


普段のあなたたちを、普段の謹慎者への指導を見ているからこそ、疑ってしまう。そして、私自身もそういう危なかしさを持って指導したことがあるからこそ。

 


隙がない、完璧すぎる説明が疑わしく聞こえる。随分時間をあけてから、十分に準備してからのそんな説明は誠実でない、そんなことを思ってしまうのは、私が混乱しているからなのか、生徒の死を、太陽君の死を受け入れられないからなのか。

 


自分の身を守るんだよ、大切にするんだよ。

世界はここだけじゃなくて広いんだよ、いろいろな世界があるんだよ、いろいろな人がいるんだよ。自分のことも相手のことも大切にできるように、向き合うんだよ。

そういうことを教えられるのが教育じゃなかったか。教育って未来のためのものじゃなかったか。私はそういう世界をつくりたいのではなかったか。

 


通夜の帰り、帰り道の空は本当に本当に美しかった。立体的な雲と、あわい青と赤と白と混ざり合って美しかった。太陽君が見せてくれてるのかなと一瞬よぎったけれど、良い空だね太陽、とまで思ったけれど、太陽君はそんなことしないよね。そして、良い空なんていまの太陽君には微塵も関係ないよね。だって死んじゃったから。勝手に空に意味付けるなんて、勝手過ぎるよね。